令和三年五月、埼玉県久喜市の八幡神社に参拝しました。
文久二年(1862)から慶応二年(1866)にかけて社殿新築
昭和五年(1930)幣殿建立
御祭神 品陀和気命
御本殿右面
住宅街にひっそりと佇む全く飾り気の無い拝殿でしたが、御本殿は立派でした。
向拝柱の龍が挟まってしまってます。幣殿は昭和5年に建てたそうですが、ちょっとこれは無いんじゃないかと思いました。
蝦虹梁以外は全て彫り物で埋め尽くされています。
胴羽目は太平記から児島高徳の十字の詩。元弘の変の時に後醍醐天皇を救出しようとして果たせず、桜の木の幹にに漢詩を残す児島高徳。翌朝、漢詩を見た帝は忠臣がすぐ側まで来ている事を悟ります。
幹に漢詩を筆で書きつける構図と小刀で刻む構図の二種類がある様です。
脇障子は鳳凰仙人。鳳凰に乗っていれば梅福、脇にいて笙か縦笛(簫)を吹いていれば簫史(蕭史とも)と判断していますが、これは笛も笙も吹いていません。
う〜む、この構図はたまに見かけます。鳳凰仙人も鶴仙人の様な様相になって来ました。まあ、誰が誰でもいいっちゃ良いんですが。
妻飾り懸魚には応龍。
大瓶束の脇には呑んでも飲んでも酔わない不思議な生き物、猩々。至る所に刻まれている銘は寄進者でしょうか。
木階脇板には唐子の力神がいました。
本殿土台と木階部分の間(名称が分かりません)には滝に打たれる虎です。
よく見ると角の様な物があります。最初は反対側の耳かと思いましたが、頭の輪郭線より手前にあるので耳ではない様です。もしかしたら、これは虎でなくて霊獣か。
御本殿背面
胴羽目はこれも太平記から、新田義貞の稲村ヶ崎。義貞が海に刀を投入して龍神に祈りを捧げるとみるみる潮が引いたので、新田軍は海上を徒歩で鎌倉に攻め込む事が出来た、という話です。
どこかの芸術家みたいです。
御本殿左面
太平記から楠親子櫻井駅の別れ。戦死を覚悟した楠正成は、帝より下賜された短刀(ここでは巻き物になってます)を嫡子の正行に授け、別れを告げます。
正行の口角が上がっています。これってどうなのか?後に正成戦死の知らせを受けて衝撃のあまり、反射的に父に貰った短刀で自害しようとする程に気性の激しい正行。悲しい場面のはずですが、この表情では、欲しくて堪らなかった物が手に入る時の様な嬉しそうな顔に見えますね。
一級品の彫り物なだけにチグハグに感じてしまいます。何か違うエピソードがあるのでしょうか。
脇障子。最初は西王母か何かと思っていたのですが、よく見ると麒麟がいました。麒麟といえば、以前は麟吐玉書(孔子が産まれる直前に麒麟が現れたという逸話)だと判断していましたが、最近は西王母の娘の上元夫人なのでは?と思っています。
こちらでも唐子が階を支えています。
虎。
やっぱりこれは耳なのかなぁ。
他に、縁下には犀や獅子の彫り物が、浜床蹴込みには唐子遊びの彫り物が有りました。
超一流の彫師の作品だと思われます。
刺青師・龍元
074(2021.06.13)
コメント
onijiiです。
力神情報ありがとうございます。
胴羽目があるのはチェックしていましたが、
力神があるのは知りませんでした。
早速行きたいと思います。(笑)
こちらの彫物は素晴らしいですね!
群馬県南部と埼玉県北部は、本当にレベルが
高いですね!!
惚れ惚れします!!!
が、自分も正行の口元はおかしいと思います。
大泣きしているか、歯を食いしばって堪えて
いるかじゃないと不自然だと思います。
これだけの彫物を彫る方ですから、何か意図が
あったのでしょうか?
やっぱり不自然ですよね!
う〜ん、何か意図があったと思いたいですね。
でも弘法も筆の誤りという言葉もありますからね。
一流の人でも案外勘違いしていた、という事もあるかも知れませんね。
心に留めておけばいつか判明する事もあるかもです。