令和五年九月上旬 埼玉県皆野町の国神神社に参拝しました。国神神社 其の二からの続きです。
創建年不詳
明治三十四年(1901)社殿改築
明治四〇年(1907)近隣各社合祀・社号を国神神社と改称
彫師 熊谷市玉井 小林栄次郎
脇障子と向拝中備以外は 多分全て日本二十四孝に取材したものです。案内板には彫刻の解説がありましたが ほとんど間違いだと思います。
いつもコメントを寄せてくださっている小心さんに教えて貰いながら 24話コンプリートを目指しました。
![案内図](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_5117-1.jpeg)
2番と8番の間 社号額の両側にも彫り物がありました。
![石神神社編額](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_5126-1.jpeg)
社号額の左側。座っている人と偉そうな人と その後ろに三宝を持った人です。案内板には解説どころか存在すら記載無し。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4690-1.jpg)
これは日本二十四孝の一つ 矢田部黒麿だと思います。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/yatabekuromaro.jpg)
Wikipedia に載っていました。
黒麻呂は父母につかえて孝であり、生きている時は孝養をなし、死んだ後は哀毀(かなしみ痩せること)を極めた。斎食(服喪の間の食事は午後は抜く)を16年続け、終始かかさなかった。そこで天皇はその雑徭(労役の形態を取る租税制度)を免じて孝行を顕彰した。
16年間晩飯を抜いて税金免除なら オレもやろっかなと思ったけど 飲みに行けないし 結構ツライですね。でも新宿には午前中しかやってない飲み屋がある訳だし 生活サイクル的に出来る人はいるのかも。。。
社号額の右側。鍬を担いだ人と家の中で座っている人。これも案内板に記載無しです。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4692-1.jpg)
日本二十四孝24話から引き算で考えて これは多分 丹生弘吉。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/niunohiroyoshi.jpg)
ArtWiki に記載がありました。
幼い頃父親を亡くし、母親と二人で暮すことになった。母親に逆らうことがなく、何でも親の言う通りにしていた。母親のために、夏は竹の蓆をうちわで扇ぎ、冬は布団を自分の身体で温めていた。
日本版の黄香ですね。
拝殿正面の右側 8番です。案内板には「金毘羅宮の二天門 長曾我部元親の逆木の門」とありました。
![信濃孝子 紀夏井](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4594-1.jpg)
8番左側の彫刻。陰から覗く飛雄馬の姉ちゃんの様な女性が印象的です。
![信濃孝子](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4727-1.jpg)
これは「信濃孝子」だと思います。 ググると「信濃孝子善之丞」というのが出てきますが どうもこれとは違う話の様なので ぜひ詞書を読みたい所です。
![信濃孝子](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0011-2-1.jpg)
なので 小心さんにテキスト起こしをお願いしました。
信濃孝子(しなののかうし)
信州の住人何某とかやいへる人 男子をまうけ妻世を去りしかば 都より後妻をむかへたりしに この妻かねてかたらひし男ありて 折々都より文を通はせけるを夫聞き知り ひそかにその文を 探し求め 我が身はものを得書かざりければ 戸隠山へ手習にのぼせおきたる我が子を呼び寄(よせ)この文を読まするに かの児(ちご)継母の罪を救はんと ことなきものに読みなし 父が怒りをとどめければ 母その志しに恥ぢ 夫(それ)より行ひを改ためぬとなん 母 ちごによみておくりし歌
〇信濃なる 木曽路にかけし 丸木橋 ふみみしときは あやふかりしを
返し
〇信濃なる 園原にしも 宿らねど 皆ははき木と 思ふばかりぞ
むむ〜
「誰かと文通している再婚相手の浮気を疑った 読み書きの出来ない男が 息子に手紙を読ませたところ 息子は継母を庇って 当たり障りない手紙の様に読んだ」
という事の様です。これって親孝行なのだろうか? 継母は改心した様ですが。。。
8番右側の彫刻は 案内板には「神官は三宝を持っている」と見たままの説明がありました。
![紀夏井](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4729-1.jpg)
これは日本二十四孝の「紀夏井」。
![紀夏井](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0007-1.jpg)
Wikipedia に載っていました。
母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えた
中国の二十四孝と比べると常識的というか これ位ならやる人はいるだろうな という感じ。
拝殿右面に廻ります。番号は9番と10番。
![石神神社拝殿右面](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_5130-1.jpeg)
まず9番です。案内板には「天霧山(香川信景ノ城跡)」とあります。
![北条泰時 楠親子櫻井駅の別れ](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4751-1.jpg)
9番左側の彫刻。案内板には「台上に奥方。重臣は言上している」とあります。
![北条泰時](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4798-1.jpg)
これは日本二十四孝の「北条泰時」でしょう。
![北条泰時](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0013-2-1.jpg)
絵を見ると母親と思われる人に傅いていますが ググっても 日本孝子美談という本に「泰時孝悌に厚く」という記述がある以外に具体的な話は見つからなかったので 小心さんにテキスト起こしをお願いしました。
北條泰時(ほうでうやすとき)
北條義時の長男にて鎌倉三代の執権たり 義時存生のうち 泰時にまさりて寵愛深き子多くありければ その死後泰時 所領を我が弟妹に多く分け与へ その身は少し請けけるを尼将軍聞き給ひ 驚きてあらため 正しく分け与へんと沙汰あるを 泰時深くとどめ申 彼らをおろそかになすは父の志にあらずと強て はじめのごとく分け与へけり
そこか〜。「弟妹を大事に」という父の遺志を頑なに守ったか〜。
9番右側は寺社彫刻ではよく見かける「楠正成正行親子の桜井駅の別れ」です。
![楠親子櫻井駅の別れ](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4800-1.jpg)
太平記の名場面。死を覚悟した楠木正成は、「最後まで父上と共に」と懇願する数え11歳の嫡子・正行に「お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、いつの日か必ず朝敵を倒せ」と諭し、帝より賜った菊水の紋が入った短刀(ここでは巻物)を授け、今生の別れを告げた。
これが孝行譚とは少し意外ですが 「日本孝子美談」にも載っています。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/スクリーンショット-2023-09-23-12-1.55.59.jpeg)
次は10番です。案内板には「国分八幡宮(金毘羅御利生のあだ討ち)国分八幡宮の伝えによると、敵討ちに金毘羅大権現に祈ったところ霊験があって、首尾よく敵を討つことができたという」と書いてあります。
![不明 後三条院](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4808-1.jpg)
10番左側の彫刻は「翁の前に仇討ち免許状を竹に指し直訴しているのは妻女で、後ろに子供が見つめている」と案内板にありました。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4805-1.jpg)
「金毘羅宮御利生のあだ討ち」というのはWikipediaによるとこういう話。
田宮流の名手として知られた源八郎は、彼の腕を恐れた藩の指南番・堀源太左衛門に斬殺された。その当時、彼の妻は臨月で、夫の死を聞いた直後に産み落としたのが、一子・坊太郎だった。
坊太郎は、幼少時から父の仇を討つため金毘羅大権現に祈りを捧げた。後に剣術を学び、15歳で免許皆伝を得る。
寛永18年、18歳の時に将軍・徳川家光から仇討免状を得た後、八幡社境内で堀源太左衛門を討ち取った。
最初はこれも孝行譚なんだろなと思いましたが「金毘羅宮御利生のあだ討ち」は日本二十四孝には数えられていません。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4797-1.jpg)
これは絵面は違いますが 丈部三子でしょう。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/hasebenosanshi.jpg)
小心さんのブログ コツコツ古典に テキスト起こしがあったので要約すると「漆役人 丈部岩勝が漆を横領して捕まり 島流しになる所を 三人の子供が直訴して赦される」という話の様です。
Wikipediaに丈部路祖父麻呂という項目が立っていて この絵がありました。祖父麻呂は岩勝の長男。姓が少し違いますが 同じ父子だと思います。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/Hasetsukabe_no_Michi_no_Ojimaro.jpg)
10番右側の彫刻。案内板には「一心に祈っている妻女」と書いてありました。
![後三条院](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4807-1.jpg)
これは「後三条院」だと思うのですが 現代がなで書いてある日本孝子美談の「後三条帝」を読んでも 後三条院とこの女性との関係は分からなかったので また小心さんにお願いしました。
![後三条院](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0015-1.jpg)
後三条院(ごさんでうのいん)・・・(お姫様かと思ったら男性でした by小心さん)
此帝いまだ太子にてましますころ 深く北斗を信じ給ふ 祈りの師 成尊僧都といへる人 つねに御祈祷のため 参内ありけるが ある時なにゆへに かく北斗を祈り給ふにやと 問ひ奉りしに きこしめされ 我が父君の在位を千代万つ代と思ふところに ややもすればわが即位のことを いそがせ給ふゆへ その御心の出で給はぬためになすとぞ仰せありけり かかる御孝心なれば 御即位の後も天下久しく治りけり めでたしめでたし
これは女性ではなく 後三条帝の太子時代の姿なんですね。日本孝子美談の現代がなで読んでも言葉の意味が分かりませんでした。。。
裏側に廻ります。
![拝殿裏面と幣殿と御本殿](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_5132-1.jpeg)
拝殿裏の11番。案内板には「井上通女 通女は讃岐の国、丸亀藩主の家臣の娘で、詩や和歌に通じ、女流作家として有名であった」とありました。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4768-1.jpg)
案内板には「通女が書見している。侍女もいる」となっていますが 左に座っているのは侍女ではなく 男性だと思います。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4769-1.jpg)
これは小野篁だと思います。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/ononotakamura.jpg)
父が死んで痩せ細り 母に仕えて孝を尽くした。病気だと言って遣唐使を断り
「篁家は貧乏だからさ お袋も年だし 水汲んで薪を拾って 平凡に親孝行するよ」
と言った人の様です。
Wikipediaを読むと なかなか反骨精神旺盛な人の様で こういう人には憧れますね。
11番右側の彫刻。案内板には「江戸からの使者がみえ、その後ろにはお供の二人が狩衣姿でいる」と書いてありました。
![不明](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4770-1.jpg)
これは分かりません。三宝の前で平伏しているのは 男性に見えます。
余っているのは左面の3番であやふやだった 波自采女か難波部安良売のどちらかですが どちらも亡くなった両親の供養を尽くした という女性の話なのです。
他のどれかが間違っているのか。。。他の孝子譚があるのか。。。。
12番です。案内板によると「瑜伽山蓮台寺 慈聖院 慈聖院の縁起によれば、妖怪がでたため坂上田村麿が向ったが討ち取れず、祈願したところ霊験現れて妖怪の退治ができた」となっています。
![橘氏妙仲 藤原衛 木樵喜十郎](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4814-1.jpg)
12番左側の彫刻。案内板には「美女の妖怪は駆け出している」となっています。
![橘氏妙仲](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4740-1.jpg)
和漢廿四孝には「橘氏妙仲」と載っていました。
![橘氏妙仲](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0010-2-1.jpg)
橘逸勢は謀反の罪を問われ流刑になったが、流される途中、役人が追い払っても追い払ってもついて来る少女がいた。それは逸勢の娘だった。
娘は、板築駅まで来た時に父が病死したを知り悲歎にくれた。娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙仲(妙冲、抄仲など表記に揺れあり)と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。
ええ娘や。泣いてまうやろ! 妖怪だなんてヒドい!
流される橘逸勢が乗せられた輿を担ぐ人夫と役人も彫られています。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4740-1-1.jpg)
12番中央の彫物。案内板には「田村麿は烏帽子直垂姿でいて〜」となっています。
![藤原衛](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4743-1.jpg)
これは「藤原衛」。多分 少年が衛なのだと思います。
![藤原衛](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0006-1.jpg)
ArtWiki 藤原衛によると
衛は二歳で母親を亡くしたが、五歳のときに母親の死について周りの人に尋ね、その故を知り母を哀憐および追慕する様子は人々を感動させた。
これって孝行譚ですか?この境遇なら誰でも母が恋しくて泣きますよね。追慕するって事は覚えているって事だから 2歳の記憶がある5歳の子だから孝子だって事?
12番右側の彫刻。案内板によると「薪を担いだ人は安心して働けることを表現している」との事。
![木樵喜十郎](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4744-1.jpg)
この彫刻も私が二十四孝と思い込んだ物の一つです。 どう見ても薪を担いだ曾参ですね。
でも正解は「樵夫 喜十郎」でした。これもググって見つからなかったので テキスト起こしを小心さんにお願いしました。
![木樵喜十郎](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/i04_03159_c088_p0005-1.jpg)
樵夫喜十郎(きこりきじふらう)
備中の国和気郡総江(さうこう)村の者なり 父ははやく世を去り 母につかへて孝心深く
その妻 母に仕ふることおろそかなりとて 子供三人までありしを離別なし再びかへさず
日ごと山に入 柴を刈りこれを代(しろ)なして いと貧しく母を養ふ かつて父が忌日にあたれば 柴を刈り取り 旦那寺の門に持ち行き ひそかにさし置てかへる 住僧それと悟り 一礼をいふに われは知らじと答へける かくすること毎度なり そのほか 善根を尽くすこと国主にきこへ 多くの褒美を玉はりける
嫁姑の折り合いが悪くて離婚。柴刈を生業に貧しく母と暮らして 父の命日には(多分お金が無いのでしょう)お布施代わりに柴を寺に差し入れ。真面目だとは思いますが まあ普通ですね。
という訳で 24話コンプリートならず。悔しい。。。誰か助けて。。。
もうどうでも良くなった感がありますが 脇障子は三条小鍛冶宗近。
![三条小鍛冶宗近](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4746-1.jpg)
案内板には「宝剣をつくる」とありました。
![稲荷神](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4747-1.jpg)
「神に捧げる宝剣を作ろうとしたとき、稲荷大明神が現れ数々の秘伝を授けられ、相槌を打ってもらい宝剣ができたという」
![三条小鍛冶宗近](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_4748-1.jpg)
散々 案内板の解説をこき下ろしてしまいましたが この解説は平成3年3月の物。素人の私が 家にいながらネットで片手間に調べてアレコレ言うべき物では無いというのは分かっています。決してバカにしている訳ではありません。
![](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/09/IMG_5117-1-1.jpeg)
私が刺青師の世界に飛び込んだ頃は インターネットも無く 分からない事があって師匠に聞いても 自分で調べろとばかりに「あ〜ん?」としか答えて貰えず 図書館や古本屋を回ったり お寺や古い土産物屋で尋ねたりと 非常に苦労したものでした。
良い時代になったものです。
文献を紹介してくださり テキスト起こしをしてくださった小心さんに感謝申し上げます。小心さんは
二十四孝に会いに行く!
コツコツ古典
というブログを書いてらっしゃって とても面白く いつも参考にさせて頂いています。ありがとうございました。
刺青師・龍元
093-03(2023.09.25)
コメント
龍元さん、こんにちは。今頃すみません。
こちらの記事はすごいですね!
龍元さんも小心さんもまるで学者さんのようですね!
日本二十四孝?恥ずかしながら初めて知りました。
私などは説明文を読んで何の疑問も持ちませんでした。
ここは秩父に行く時に毎回のように通るので、
改めてじっくり鑑賞しに寄ってみたいと思います。
こんにちはShin-Zさん
いえいえ、学者さんは小心さんだけですね。私は現代文字に訳してもらっても、まともに意味がわからない時が多いです。
ここには1時間半いましたが、ここの彫刻はどれも高い位置にあるので首が痛くなりますね。