小林栄次郎の人物彫り物 [国神神社 其の二 左面の小壁と脇障子] 埼玉県

随身さま 神社仏閣
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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令和五年九月上旬 埼玉県皆野町の国神神社に参拝しました。国神神社 其の一からの続きです。

創建年不詳
明治三十四年(1901)社殿改築
明治四〇年(1907)近隣各社合祀・社号を国神神社と改称
彫師 熊谷市玉井 小林栄次郎

案内板に解説が有ったので その順番で行きます。

案内図

1番の向拝中備は其の一で見たので 2番から。

国神神社拝殿

案内板によると「八十八やそばの水」「日本武尊やまとたけるのみことが悪魚退治の折、一人の童子が汲んでくれた水を呑んで、尊や士卒の八十八人が生き返ったという話」だそうです。

八十八の水

現場では 高い場所から民の暮らしぶりを見守り 租税を免除したり宮殿の修繕を控えたりして民の負担を思い遣った 仁徳天皇の民のかまどと思っていました。 写真を見ると煙が立っていません。

民の竈?

案内板によると「ひょうたんに水を入れている人、それに位冠束帯いかんそくたいの貴人が見え、背面にみす(すだれの事)があるので霊泉を表現している」との事。

民の竈?

〜追記(2023.09.21)これは やはり仁徳天皇の様です。

仁徳天皇
和漢廿四孝 仁徳天皇

ただし、彫刻は民の竈ではなく、父の応神天皇に孝行を尽くした天子という事で日本二十四孝の一つに収められている話の様です。 追記終わり〜

こちらは 孝行息子が酒の滝を発見し父親に飲ませたら若返ったという 養老の滝伝説だと思っていました。

養老の滝伝説?

〜追記(2023.09.21)これは やはり養老の滝伝説で良さそうです。

養老の滝
和漢廿四孝 養老孝子

同じく日本二十四孝に数えられています。 追記終わり〜

拝殿左側面です。

国神神社拝殿左面

こちらは3番。案内板には「金毘羅宮大祭 瀬川の神事」「頭人や女頭が酒を諸神に供え、大勢で赤飯、濁り酒などを飲食し、藻を流して精進するという」とあります。

金毘羅宮大祭 瀬川の神事

さらに続けて「民家での神事を表現している。欄干と柳の木は川を表現し、頭人・女頭・娘がいる」と書いてあります。

金毘羅宮大祭 瀬川の神事

現場では 人形を両親に見立てて孝行を尽くした二十四孝の丁蘭ていらんだと思ってました。でもよく見ると和装です。

金毘羅宮大祭 瀬川の神事

〜追記(2023.09.21)これは平安時代に親孝行で朝廷から表彰された伴直家主とものあたいやかぬしという人です。

伴直家主
和漢廿四孝 伴直家主

両親の像をつくって、生きていたときと同じように食事を供え、供養しておこたることが無かったという、正に丁蘭の日本版です。 追記終わり〜

「手桶には藻葉がさしてある。」と書いてありましたが 私は家で写真を見るまで 姑のために毎日遠くまで歩いて水を汲みに行った 二十四孝の姜詩きょうしだとばっかり思ってました。

金毘羅宮大祭 瀬川の神事

〜追記(2023.09.21)これは難波部安良賣なにわべのあらめの様です。亡くなった両親のために、常に両親を祭るところで拝み、朝夕喪服を身につけ孝を尽したそうです。

難波部安良賣
和漢廿四孝 難波部安良賣

〜追記(2023.09.24)新たに小心さんにご教示いただいた本朝二十四孝 : 児訓には 和漢廿四孝の難波部安良売よりも彫刻の造形に近いものがありました。画題は波自采女はじのうねめ

本朝二十四孝:児訓 波自采女

内容的には難波部安良賣とほぼ同じ。両親の墓の側に草庵を建て 喪に服して供養を尽くしたそうです。 追記終わり〜

こちらは4番「金毘羅宮大祭 十日〜十一日の神事」「十日は行列して参詣し、米一升三合、銭五分を供える」と案内板にありました。

金毘羅宮大祭 十日〜十一日の神事

「頭人の家である。供物の膳、銭の束、風呂敷包み、土瓶までそなえられ神輿行列に供奉している様子を表している」のだそうです。

金毘羅宮大祭 十日〜十一日の神事

〜追記(2023.09.24)こちらは薩摩福依賣さつまのふくよめ

「薩摩の賤しい民の娘なり もとより家まづしく〜 薬を求め或いは父母の好める〜 位三級を賜り」

読める所だけなので 大分端折りましたが 孝行娘なのでしょう

本朝二十四孝 薩摩福依賣

他に漢文の物を見つけました。なんとなくですが崩し字よりも内容がわかります。

『 日本文徳天皇実録 』 巻五仁壽三年 (八五三) 七月丙辰 (廿七 )
賜薩摩国孝女掴前福依売爵三級。復終其身。旌表門間。福依売天性至孝。父母年皆ハ十。 老病着床。無子。唯有一女福依壳。扶侍左石。嘗藥二十餘年。傭力致養。曉夕辛勤。容顏焦痩。観者憐之。福依売雖云野族 。関於礼儀。恭敬父母。有所診裏。必正色作聲。未曽褻惰。

追記終わり〜

この女の人は鍬を持っているので 畑仕事をしているのだと思いますが 案内板には説明がありません。金毘羅宮例大祭も調べてみましたが分かりませんでした。

金毘羅宮大祭 十日〜十一日の神事

「何でしゃがみ込んでいるのよ?」
「もう何もかもイヤんなったんだよ!」

金毘羅宮大祭 十日〜十一日の神事

〜追記(2023.09.24)これは農民甚助。本朝二十四孝に似た絵がありました。

本朝二十四孝 農民甚助

実は甚助は二人いて 初代孝子・甚助は親への孝養を認められ 岡山藩主池田光政によって岡山城に召され 田3反畑2反を賜り 永代にわたって租税を免ぜられたそうです。二代目・甚助は初代の曾孫。こちらも親への孝養を認められ 岡山藩主池田継政に召され 感書と倉米1石と白銀3枚を賜ったそうです。 追記終わり〜

拝殿背面と幣殿側面の小壁にも彫り物があります。

国神神社幣殿左側面

5番「金毘羅宮大祭 十一日の神事(箸の奇端)」「頭人や女頭の食べた膳具や箸を投げ捨て、諸人はその箸を拾うと幸運になるという。」だそうです。

金毘羅宮大祭 十一日の神事(箸の奇端)

案内板には「二人の随身像がいる。」となっていますが、どう見ても像ではありません。「もっと真面目にやらんか!」 左大神が右大神を折檻している様に見えます。

随身さま

〜追記(2023.09.21)これは随身公助ずいしんきみすけ

随身公助
和漢廿四孝 随身公助

公助と父の武則(敦行とする話もあり)は共に騎射の名手だったが、右近馬場の賭弓で全ての矢を外した公助を父は打ち据えた。

なぜ逃げなかったのかと問われた公助は「逃げれば父は私を追うでしょう。年老いた父が転んで怪我でもしたら大変だ」と答え その孝行心を讃えられたという話。(え?本当に? ひどい負け惜しみ こんなひどい言い訳聞いた事がない by龍元)

追記終わり〜

「彫刻は、頭人と女頭は食事中で、婦人が給仕している。食事がすんだら膳も箸も投げ捨てるのだろう。」と推量的な説明。

〜追記(2023.09.21)これは佐紀直女。内容は分かりませんでした。私は崩し字が読めないのですが 八人の子を養育したとか 義理孝〜とか 書いてあります。どなたかご教示ください。

佐紀直女
和漢廿四孝 佐紀直女

小心さんがテキスト起こしをしてくれました。感謝。

佐紀直女(さきのあたひむすめ)
大和の国佐紀のさとの民 直氏(あたひうぢ)のむすめは同郡なる 大倭忌寸果安(やまと いんき はたやす)の妻となりしに夫 世をはやくし 節義をまもって 舅姑につかへて 孝を尽くし 先婦の子四人 わがうむところの子四人 すべて八人の子を養育なすに さらに へだつるいろなし 義理孝行慈悲 三つの道を欠かざる 賢女かなと みな人賞賛なしぬ

追記終わり〜

次は6番「清少納言の墓」「鼓楼を造るために清少納言の墓の移転を考えたが、近くの人の夢に納言の霊が現れ、墓をそのままにしておくことにした。」

清少納言の墓


 「彫刻は、清少納言は脇息にもたれ、霊を告げられた男性」

清少納言の墓

〜追記(2023.09.24)これは大江拳周おおえたかちか

本朝二十四孝 大江拳周

「挙周が重病になったとき、母の赤染衛門あかぞめえもんが住吉神社へ詣で、自分の命に代えても息子を救ってほしい、という意味の歌を奉納した。するとたちまち挙周は快復したが、逆に赤染衛門が重病になった。挙周は驚き、急いで住吉神社へ行き、自分の命に代えて母を救ってほしいと祈ったところ、神が憐み、二人ともに元気になった」という内容だそうです。小心さんにご教示頂きました。

脇息にもたれているのが母の赤染衛門なのでしょう。赤染衛門とは男みたいな名前ですが 女房三十六歌仙の一人とWikipediaに載っています。 追記終わり〜

「平伏して詫びている衣冠の人」

清少納言の墓

〜追記(2023.09.21)これは小松内大臣重盛。

小松内大臣重盛
和漢廿四孝 小松内大臣重盛

院の御所に軍勢を差し向け攻め寄せるつもりの清盛を 重盛が涙ながらにいさめる重盛諫言の場面だと思います。追記終わり〜

「鯉に驚いている婦人もみられる。」と見たままの説明。

鯉に驚く婦人

〜追記(2023.09.21)これは竹内邑今女。内容は分かりませんでした。

竹内邑今女
和漢廿四孝 竹内邑今女

図には「大和の国たけのうちむらの庶民を〜むすめ今女といへる〜」と書いてある様な感じです。その後は私は崩し字が読めないので 意味が読み取れませんでしたが 小心さんがテキスト起こしをしてくれました。

竹内邑今女(たけのうちむらのいまぢょ)
大和の国たけのうち村の農民なにがしが娘 今女といへるは 早くより母にわかれ 一人の父を限りなく大切になしけるが 家きはめて貧しく よろづ思ふに任せねども その父が望むものは 心を尽くして これをととのへ与ふるに あるとき鯉を食せんことをいふ あたりに大いなる流れもあらず 求めんとするに あたへなければ なんとせんと 案じわづらひつつ 前の小川へ家具を洗ひに出でけるに 不思議や たづさへゆきし桶の内へ 尺に余る鯉踊り入けり 今女大きに喜び父にすすめぬ これ天より 孝女へたまはりしものなるべし

追記終わり〜

7番 御本殿脇障子は「鞍馬山の牛若丸」です。

牛若丸剣法を修す

「牛若丸は早業のできる仙人でもあった。

牛若丸

より精進するため、鞍馬山の天狗から修行を積んだといわれる。」

鞍馬山僧正坊と烏天狗

これは百点満点 簡潔で分かりやすい解説です。

〜追記(2023.09.21)  小林栄次郎はここの彫刻で柳下亭種員の和漢廿四孝という本を参照した可能性が高いと思われます。追記の画像は和漢廿四孝からの引用です。

〜追記(2023.09.24)江戸時代には日本二十四孝の本が盛んに出版された様で 和漢廿四孝だけを参照したとは限らない様です。

参考書籍や内容など二十四孝に会いに行く!の小心さんにご教示いただきました。詳しくはコメント欄をご覧ください。 追記終わり〜

次回は右側面です。

刺青師・龍元

092-02(2023.09.20)

コメント

  1. 小心 より:

    最近更新をさぼっている小心です。
    これらの彫刻、「和漢廿四孝 /柳下亭種員」に出てくる日本の孝子によく似てます。
    https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03159/i04_03159_c088/i04_03159_c088.html
    多少アレンジしているようですが。以前この本の後半部分(中国の孝子)だけブログに
    載せたことがあり、桶から魚が飛び出しているのとか丁蘭の和服版とか、なんとなく見覚えがありました。

    • おお!ありがとう御座います!

      確か小心さんのブログで日本の孝子の話を見た事が有ると思って探したんですが、見つけられなかったんです。

      少なくとも、鯉に驚く婦人は竹内邑令女、平伏して詫びている衣冠の人の相手は小松内大臣重盛、2人の随身さまは随身公助で間違い無いですね!

      養老の滝伝説や仁徳天皇も同じ本に載っているし、小林栄次郎はこの本を参照した可能性が高いですね。

      他の物も良く調べてみます。ありがとう御座います!

  2. 小心 より:

    和漢廿四孝だけでなく、ほかの孝子本の絵も混ざってる感じですね。
    鍬を持つお姉さんといじけた弟?は何のお話でしょうかね。清少納言(?)も気になります。佐紀直女と竹内邑今女、テキスト起こしましたよ~。9割は合ってると思います♪
    ーーー
    佐紀直女(さきのあたひむすめ)

    大和の国佐紀のさとの民 直氏(あたひうぢ)のむすめは同郡なる 大倭忌寸果安(やまと いんき はたやす)の妻となりしに夫 世をはやくし 節義をまもって 舅姑につかへて 孝を尽くし 先婦の子四人 わがうむところの子四人 すべて八人の子を養育なすに さらに へだつるいろなし 義理孝行慈悲 三つの道を欠かざる 賢女かなと みな人賞賛なしぬ
    ーーー

    竹内邑今女(たけのうちむらのいまぢょ)
    大和の国たけのうち村の農民なにがしが娘 今女といへるは 早くより母にわかれ 一人の父を限りなく大切になしけるが 家きはめて貧しく よろづ思うふに任せねども その父が望むものは 心を尽くして これをととのへ与ふるに あるとき鯉を食せんことをいふ あたりに大いなる流れもあらず 求めんとするに あたへなければ なんとせんと 案じわづらひつつ 前の小川へ家具を洗ひに出でけるに 不思議や たづさへゆきし桶の内へ 尺に余る鯉踊り入けり 今女大きに喜び父にすすめぬ これ天より 孝女へたまはりしものなるべし
    ーーー
    芭蕉も涙したという「孝女伊麻」のお話とよく似てますが、「孝女伊麻」のほうは鯉じゃなくてウナギだそうです。

  3. ++ より:

    ・「随身公助」の冒頭部分、”東三条大政大臣の御鷹飼「武則(たけのり)」の子なり”と書かれています。

    ・「竹内邑今女」のテキストの「よろづ”思うふ”に任せねども」→「思ふ」です。失礼しました。
    ーーー
    「養老の滝」「仁徳天皇」の彫刻は時々見かけますが、その他の和製二十四孝の彫刻は今回初めて見ることが出来ました。国神神社が唯一なのか、それともほかの社寺にもあるのか興味深いところです。「難波部安良賣」は下駄を履いてるのも日本人であることのポイントかな、と思いました。でも遠目で見たらあの欄間は「丁蘭」と「姜詩」に見えますね。

    • 分かりました。訂正しておきます。

      今、反対側の彫刻を調べていますが、そちらも和漢廿四孝がタネ本だと思われる物が沢山ありました。「楠正成正行親子の櫻井駅の別れ」も孝子談に数えられているんですね。日本の孝子談は中国の二十四孝に比べると薄味と言うか、普通っぽいと感じました。中国版が破茶滅茶過ぎるんですけどね。

      和製二十四孝は今までにも見逃してた可能性はありますが、ここが激レアなのは間違いないですね。実は私のブログの一番熱心な読者は私で、何回も何回も見直して思い出に浸っているので、もし見逃していればその内見つかるかも知れません。

  4. 小心 より:

    先ほどは名前入れ忘れて失礼しました。まだほかにも彫刻があるんですね!楽しみです。
    テキスト起こし必要ならいつでも仰って下さいね。龍元さんにはいつも勉強させていただいているので♪

    • 本当にありがとう御座います。
      ぜひお願いします。間違っている所などもご指摘ください。

      浮世絵の詞書なども読めたら良いのにと本当に思います。

  5. 小心 より:

    国立国会図書館デジタルコレクション 本朝二十四孝 : 児訓 
    https://dl.ndl.go.jp/pid/758321

    和漢廿四孝(柳下亭種員 撰)と顔ぶれは同じですが、絵の表現が
    多少違うので、両方の絵と文章を参照しながら彫刻を見直してみました。

    番号は「本朝二十四孝 : 児訓」のコマ番号です。
    〇鍬を持つ女性と膝を抱える男の人・・・14農民甚助(夫婦でした)
    〇清少納言?・・・18大江挙周(おおえのたかちか)と母の赤染衛門
    〇銭の束を囲む親子3人・・・22薩摩福依賣

    清少納言(?)の彫刻、背景の帆掛け船と橋が気になっていました。
    「和漢廿四孝・大江挙周」の文章の内容は「挙周が重病になったとき、
    母の赤染衛門が住吉神社へ詣で、自分の命に代えても息子を救ってほしい、という
    意味の歌を奉納した。するとたちまち挙周は快復したが、逆に赤染衛門が重病になった。
    挙周は驚き、急いで住吉神社へ行き、自分の命に代えて母を救ってほしいと祈ったところ、
    神が憐み、二人ともに元気になった」ということです。
    背景の海は住吉の浦、橋は住吉神社の太鼓橋のようですね。

    中国の二十四孝以上に難解な題材ですね。この神社の他に例を見たことないので・・。

    • これは凄いですね。さすが小心さん、私と同じ匂いがするとは思っていましたが、私とは桁違いのヘンタイ(褒め言葉)ですね。

      国神神社4番右側の彫刻は薩摩福依賣 左側の彫刻は農民甚助 6番の清少納言は大江挙周なんですね。

      脇障子を除くと前面と両側面合わせて24の彫刻がありますから、日本二十四孝コンプリートという事になりそうです。画題が完全に分かるのは凄い事ですね。逆に言えば、案内板は中備と脇障子のみしか合っていなかった、という事になります。

      ありがとうございます。

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