令和二年六月吉日、千葉県我孫子市の葺不合神社に参拝しました。
中々の難読社名ですね。これは御祭神の鸕鶿草葺不合尊から来ているのだと思います。
鸕鶿草葺不合尊というのは豊玉姫と山幸彦の子供で、神武天皇の父です。知っていた様に書いてますが、Wikipedia教授に今日教わりました。
ずいぶん立派な拝殿だと思ったら、元々は厳島神社の御本殿だったそうです。
御由緒
奈良時代(710−794)葺不合神社創建
文治二年(1186)厳島神社創建
江戸時代中期 厳島神社本殿(現拝殿)再建
明治三十年(1897)葺不合神社として現本殿建築
明治三十九年(1906)近隣三社を合祀すると共に、近隣に鎮座していた葺不合神社の社殿を本殿として現地へ移築(曳き家されたそうです)、旧厳島神社の本殿を拝殿として、社名を葺不合神社と変更
御祭神 鸕鶿草葺不合尊
彫師 二代後藤藤太郎
ちょっと複雑なので詳しくは案内板を見てください。多分上の解釈であってると思います。
御本殿
拝殿の後ろ、ちょっと上った所に御本殿が鎮座しています。立派な社叢です。
覆屋は近代的で趣は無いですが、彫刻の保護と鑑賞の両側から考えて、かなり合理的な造りだと思います。
向拝
向拝の龍は目がくり貫かれていて、ちょっと怖い。嵌めてあった玉眼が取れてしまったのでしょうか。
扉には神宮皇后と武内宿禰。「応神天皇誕生」ですね。脇板には珍しい事に亀がいました。
向拝柱の龍も目がくり貫かれていました。
右面
胴羽目は「須佐之男命の大蛇退治」。今にも大蛇の断末魔の叫びが聞こえてきそうですね。
小技が効いてるというか、爪の表現も秀逸です。でも彫りは割と粗い気がします。
縁下の彫り物。ここにも亀がいました。
案内板によるとこれは「明治の軍人」だそうです。八條八幡神社にも明治の様子を描いた彫り物がありましたが、激レアだと思います。
背面
胴羽目は「天岩戸」。猿田彦がピノキオみたいです。本当はこの場に猿田彦は居ない筈なんですけど、寺社彫刻では割と描かれる事が多いみたいですね。
縁下の彫り物。
左面
胴羽目は「神武東征」。道臣命が八咫烏に導かれる場面です。でもこの場にいない筈の神武天皇かも知れません。
縁下の彫り物。
こちらの脇障子も「明治の軍人」。
時代が下ると段々技巧的になってしまって、小技がワザとらしくなってしまうと感じているのですが、この頃がギリギリですかね。
もちろん素人の私個人の感想です。
刺青師・龍元
135(2020.06.28)
コメント
onijiiです。
難読神社ナンバーワンですね!
「天御中主神社(あめのみなかぬし)」
「祖母井神社(うばがい)」
「武尊神社(ほたか)」
これも読めませんよね!!(笑)
どれも馴染みがなければ読めませんね。私は天之御中主神社と武尊神社は知ってましたが、祖母井は読めませんでした。
因みに祖母井はパソコンで打つとちゃんと変換されますね!