令和二年十二月、埼玉県川越市の成田山川越別院本行院に参拝しました。
成田山新勝寺の別院です。
山門
見切れてしまいましたが、唐破風兎の毛通しには控鶴仙人。
虹梁上には十六羅漢の一人、伐闍羅弗多羅尊者。壺から龍を呼び出しています。道教の陳楠仙人というのがほとんど同じポーズですね。常々思うのですが、元々は同じ神様でどちらかがもう一方に取り込まれた、もしくは影響を受けたのではないでしょうか。
反対側には虎を可愛がる迦理迦尊者。こちらも十六羅漢の一人。董奉仙人に似ていますが、袈裟を着ているので、これは羅漢様。
本堂
嘉永六年(1853)廃寺となっていた本行院を再興
大正九年(1920)本堂・山門改築
御本尊 不動明王
彫師 川越住 野本民之助義明
仕方がないのでしょうが、残念ながら龍は檻の中。
裏には「彫刻師 野本民之助 義明之作」と銘がありました。
鐘楼
鐘楼の蟇股には四神の彫り物がありました。境内の案内板には本堂・山門は民之助の手によるもの、とありましたが、鐘楼については記述がありませんでした。
南側には南方を守護する朱雀。
東方を守護する青龍。
北側には玄武。
西側には西方を守護する白虎。どれも素晴らしい出来栄えです。
出世稲荷神社
こちらにも民之助の壮麗な彫り物がありましたが、また次回に。
大師堂
大師堂の奉納額の龍が渋いです。こちらは明治七年奉納なので、民之助の作ではないでしょう。
明治八年奉納の倶利伽羅剣の額。
野本民之助義明は明治二十五年(1892)に熊谷で生まれ、川越を拠点として山車や社寺に数々の作品を残し、昭和三年(1928)36歳で夭逝しています。狭山市の狭山八幡神社の拝殿と手水舎も民之助です。
案内板によると、ここ本行院の改築時は民之助28歳、境内社の出世稲荷神社を手掛けたのが円熟期に入った30歳だそうです。
30歳で円熟期に入ったのか。私は齢50をとうに越えましたが、一体いつになったら円熟するのか。。。見えた!と思ったら見失って、掴んだ!と思ったら胡散霧消、って感じです。
精進あるのみ。
刺青師・龍元
300-01(2020.12.29)
コメント
onijiiです。
鐘楼の四神がいいですねえ。
おやこちらにも出世稲荷神社があるんですか?
うーむ、円熟・・・。
何でも手を出す自分には、無縁の単語ですね。(笑)
出世稲荷は成田山の方にもありますね。
なんでも手を出すonijiiさんには無限の可能性がある、と言えますね。
こんばんは
川越の鈴木です。
一つお聞きしたいことがあります。成田山川越別院の山門の境内側の中備えの、寅と一緒にいる羅漢様は、迦理迦尊者と書かれていますが、16羅漢を調べていると、跋陀羅尊者が、寅を従えている掛け軸を見つけました。喜多院の五百羅漢の16羅漢像も、跋陀羅尊者が、寅を従えています。私は、沢山の彫刻を見ていないので、分かりません。ご教授いただけたらありがたいです。
コメントありがとうございます。
そうですか。喜多院の五百羅漢では跋陀羅尊者となっていますか。一般には伏虎羅漢と呼ばれる様ですね。
私は立命館大学のWeb画題百科事典で調べました。
「なほ十六羅漢の形相は左の通りである。
七 きやりきやそんじや 迦理迦尊者
松の根に倚り左脚を挙げ、右肩を祖ぎ右手を挙げ左手に虎を持す」
と書かれています。典拠は『東洋画題綜覧』金井紫雲の様です。
他はどこを調べても「十六羅漢は作例が非常に多く、一人一人を同定する事は困難」と解説されている事が殆どです。
これは迦理迦尊者だと言っておきながら何なのですが、絵や彫刻の作者は誰が誰なんて気にもしてなかったかも知れません。
勉強になりました。ありがとうございます。
早速、ありがとうございました。勉強になりました。私は、今、川越で、著名な彫刻家の野本民之助について興味を持っています。どんな思いで作品を作っていたのかが、少しでも分かればと思って調べています。
野本民之助について研究なさっているのですね。彫刻師については分からない事も多く、学術的な研究もこれからの様ですので、大変意義のある事だと思います。