令和四年四月中旬、群馬県高崎市の倉賀野神社に参拝しました。
崇神天皇四十八年(BC50)創建
元治二年(1865)現本殿上棟
慶応二年(1866)遷宮
明治八年(1875)現拝殿上棟
明治十三年(1880)現拝殿工事完了
彫師 北村喜代松 石川兼次郎
御祭神 大國魂大神
拝殿
案内板によると彫師は北村喜代松と石川兼次郎となっていますが、どれが誰の作なのかは私には分かりません。
兎ノ毛通しは梅福仙人でしょうか。
本来、梅福仙人は青鸞に乗っているとされていますが、鳳凰乗り仙人は多くの神社で梅福仙人と解説されています。
鳳凰と笙吹き仙人の組み合わせには蕭史というのもあるのですが、蕭史は大抵の場合鳳凰の横に座って笙を吹いていて、鳳凰に乗っているのは川越の↓出世稲荷神社以外では見た事がありません。
唐破風下は虎仙人の董奉。病を治して銭を取らず、治癒した者に杏を植えさせて数年で杏樹森然林を為したそうです。杏と穀物を交換し虎がこれを警護していたと言います。杏仁豆腐の考案者という説もあります。〜追記(2022.05.08)これは虎が2匹いるので鄭思遠ですね。寺社彫刻巡り同好の士、Shin-Zさんにご教示頂きました。詳しくはコメント欄をご覧ください。 追記終わり〜
水引虹梁上の中備は、太真王夫人が奏でる一絃琴の音色に龍が聞き惚れる構図の玉巵弾琴。
寺社彫刻では良く見る意匠なので玉巵弾琴で間違いないと思いますが、案内板には「兄たちに妬まれ岩屋に押し込められた八郎が恨みを抱いて大蛇になり、兄たちと妻子眷属を食い殺し、さらに年に一人の生贄を食っていたが、宮内判官宗光が観世音菩薩を称名、琴を弾き、大蛇は黄色の涙を流し悔い改めた」飯玉縁起を表している、とありました。
持ち送りは波に亀。やはり唐破風下と比べるとだいぶ傷んで来てますね。
御本殿
御本殿には残念ながら胴羽目の様な大きな彫り物はありません。
海老虹梁の龍。
背面唐破風の鳳凰。
左面には四輪に化け鯉・菊、斗栱間に波に千鳥、頭貫上に唐獅子の彫り物がありました。
他に大虹梁上や妻部に鷹と梟などの彫り物がありました。
北村喜代松というのは長野で作品を良く見かける彫師で、鬼無里ふるさと資料館では喜代松作の山車や神楽を鑑賞する事ができますが、胴羽目彫刻など大きいものはあまりやらなかったのか、私は見た事がありません。
石川兼次郎といえば、群馬県藤岡市の御荷鉾山不動尊に石川兼次郎藤原豊重という銘がある彫り物があります。こちらも迫力のある彫り物ですが、胴羽目彫刻ほど大きい物ではなく頭貫上の小壁です。
刺青師・龍元
060(2022.05.04)
コメント
中備の彫刻はやはり玉巵ですよね!こちらに初めて参拝した時は経験値が足りず、説明を読んで玉巵じゃないんだと納得してしまいましたが、今見るとどう見ても玉巵にしか思えません。こういう間違いと思われる説明はよくないですよね。私は二ツ宮氷川神社の説明を見て、玉巵のことをしばらく応夫人というのだと思っていました(^▽^;)
ところで唐破風下の彫刻は鄭思遠の可能性はありませんか?寄り添っている虎は少し小さく子虎に思えるのと、大きい親虎らしきが距離を置いている点からそう思いました。残念ながらこれぞ鄭思遠という彫刻をまだ見たことがないので確定要素がわかりませんが。
そうですね!虎が2匹いますから鄭思遠の可能性が高いかも知れませんね。今まで虎の数を気にした事は無かったので、もしかしたら他にもあるかも知れません。私が参考にしている「陽明門を読み解く」という本には、親虎に鄭思遠がまたがり、子虎に教書、衣類、薬品を積んで町人に仁術を施す、とあります。
玉巵は弁天と間違われる事も多いですね。まあ、素人の私が偉そうな事は言えませんが、意見を言うのは良いですよね。