令和五年 新年寺社彫刻巡礼の旅二日目 茨城県常陸大宮市の鹿島神社に参拝しました
![鹿島神社鳥居](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9993-1.jpeg)
明徳二年(1391)八幡神社として創建
元禄四年(1691)徳川光圀の命により鹿島神社と改める
元文元年(1736)本殿建立
御祭神 武甕槌命
![鹿島神社](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9992-1.jpeg)
御本殿は玉垣+覆屋で護られています
![鹿島神社御本殿覆屋](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9990-1.jpeg)
全体を目視するのは厳しいですが 玉垣は透き塀で覆屋にも開口部が広く取ってあるので 撮影難易度はそれ程高くはありません
![鹿島神社御本殿](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9985-1.jpeg)
右側脇障子を撮るのを忘れてしまったので解像度の高くない写真ですが これは巣父でしょう
![巣父](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0513-1.jpg)
許由が汚れたる耳を洗える頴川の水は更に穢れたりとて之を渡ることを肯んぜざりしという(画題辞典 斎藤隆三)
右面です
![鹿島神社御本殿](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9979-1.jpeg)
胴羽目は李白観瀑
![李白観瀑](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0516-1.jpg)
唐代の大詩人李太白が 瀑布に臨みて詩懐を行るの境を図せるものなり(画題辞典 斎藤隆三)
![李白](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0517-1.jpg)
背面です
![鹿島神社御本殿](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9982-1.jpeg)
胴羽目は林和靖
![林和靖](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0521-1.jpg)
林和靖は宋代の詩人なり 後世画家の和靖を画くもの愛梅の図と撫鶴の図と共に多し(画題辞典 斎藤隆三)
![林逋](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0519-1.jpg)
左面です
![鹿島神社御本殿](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_9983-1.jpeg)
胴羽目は布袋と唐子
![布袋と唐子](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0522-1.jpg)
支那四明山の僧なり 我邦にては江戸時代以来 七福神の一として福の神に数ヘらる 小児を愛し之と戯れて悠々自適す(画題辞典 斎藤隆三)
![布袋尊](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0524-1.jpg)
左側脇障子は許由
![許由](https://ryugendo.tokyo/wp-content/uploads/2023/02/IMG_0510-1.jpg)
許由は箕山の隠士なり 尭曽つて許由の賢を聞き 之に天下を譲らんとす 許由之を肯んぜず 斯くの如き事を聴く我が耳汚れたりと 頴川の河水を以て其の耳を洗えりという(画題辞典 斎藤隆三)
刺青師・龍元
013(2023.02.03)
コメント
onijiiです。
派手な彩色の獅噛があり、大喜びした神社です。
茨城県には4ヶ所しかなく、とても珍しいです。
神社の彫刻は関心が薄く、誰からも注目される
こともなく、朽ち果てている神社も見かけます。
地方の集落の神社まで紹介している先輩方の
ブログで、自分たちの神社に何が彫られている
のかを初めて知った氏子さんも多いと思います。
江戸時代から守られてきた貴重な文化遺産です。
ブログでの発信はとても意義があると思います。
文化財保護の一助になるといいですね。
Onijiiさん おはよう御座います
獅噛み有りましたか!
全く気が付きませんでした。集中力を維持するのは難しいです。
彫刻に関心が薄いというのは、戦後の美術教育が西洋型の「閃き重視」「習うより感じろ」になってしまった事の弊害の一つだと聞いた事がありますね。東洋美術は、そこに描かれている物語を知らないと理解出来ないので、国文学や中国故事の知識が必要です。まあ、大変ですね。