令和二年八月吉日、埼玉県所沢市の八坂神社に参拝しました。
ここは所沢市のサイトで見付けました。
ページには『こちらの文化財所在地については、都合により記載しておりません。ご理解・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。』と書いてありましたが、どこにあるのか同じページにちゃんと書いてあったので、グーグルマップで簡単に見付ける事が出来ました。
御由緒
天保十四年(1843)社殿造営
明治四十年(1907)現在地へ遷座
御祭神 須佐之男命
宮大工 五十嵐狹太夫
所沢市指定文化財
所沢市のサイトによると、天保十年(1839)多摩郡野口村(現東村山市)の宮大工・五十嵐狹太夫が代金27両のうち手付金は5両で、3年の間に完成させるとの約束で製作を請け負ったそうです。
27両って一体どれ位なのか。
日銀のサイトによると、18世紀後半においての大工の賃金で計算すると、一両は約35万円とあります(一両で23人の大工を一日雇えたという記録があり、2016年の統計では大工の日当は15,000円)。
この社が製作されたのは19世紀ですが、仮に同じとして計算すると、931万5千円。材料費込みなのかどうか解りませんが、安くはありません。しかし、弟子や下職も使っているでしょうから、3年間これに掛かりっきりという訳にはいきませんね。それとも生活費が安くて一人でのんびり作ったのか。。。
ちょっと下世話な話になってしまいました。
案内板で「向拝の竜が素晴らしい」と一押しの龍。非常に緻密で素晴らしい出来です。右の獅子の木鼻についている緑色は本物のキリギリスです。
それにしても地紋彫りが凄い!
扉脇には昇り下りの龍が彫られていますが、これらは見合っていません。右側の龍がどこを向いているか興味がありますが、覆屋の扉の開口部が高い位置にあるので見下ろす形になってしまって、龍の頭は見えません。
右側脇障子は浦島太郎でしょうか。
こちらは左側脇障子。最初はゴザ仙人かなと思ったのですが、写真を見ると老人の脇に釣竿とビクの様な物があるので、右側脇障子の浦島太郎と釣り人つながりで、太公望かなと思います。
実を言うと、所沢市のサイトでは『非公開』となっていました。覆屋を横から見ると格子窓には白っぽいプラ板がはめてあります。
どこか隙間は無いかと探してみると、ありました。覆屋背面の窓のプラスチックが劣化して欠けてしまっている箇所がありました。
隙間から覗いてみると胴羽目には黄石公と張良がありました。脇障子は鶴と亀。一眼レフのレンズは入らなかったので、iPhoneカメラで撮ったものを Photoshop でつなぎ合わせてみました。
覆屋右面窓にも欠けがありましたが、彫り物は良く見えませんでした。
が、このプラ板、格子のすぐ脇は色が薄い事に気が付きました。つまり、元々は透明だったプラ板が、太陽の光に反応して経年劣化で白く濁った物だった訳です。
右面は北側にあたるので陽の光が直接当たらないのでしょう。完全な透明ではありませんでしたが、窓の上部からなんとか撮影する事が出来ました。牛若丸鞍馬山にて天狗より剣法を修すの図です。
二重虹梁間には麒麟、もしくは犀がありました。
残念ながら左面は南側なので、プラ板は太陽の光をさんさんと浴びて真っ白、本殿の影がうっすらと見えるだけでした。
胴羽目を前から見た感じでは碁盤の様な物と人物が4人いるのが確認できました。
多分、このままプラ板の劣化が進んでいけば、また新しい透明な物(⇦願望)に取り換えるでしょうから、そのタイミングで見る事が出来るかも知れません。
刺青師・龍元
185(2020.09.02)
コメント
onijiiです。
結構いいお値段ですね!
当時の氏子さんたちの寄進なんですよね。
悪代官に搾り取られる農民というイメージを
持ってましたが、どうも違うような?
烏天狗ありがとうございます。
そうですよね。最近、江戸時代の研究が進んで来て、どうも昔学校で習ったような感じではなかったらしい、という話は聞きますよね。
私たちは騙されていたのでしょうか?もしくは未だ騙されている?