刺青図柄の意味 頼豪阿闍梨 (らいごうあじゃり)

頼豪阿闍梨 刺青図柄解説
頼豪阿闍梨
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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頼豪阿闍梨

1002-1084 平安時代 天台宗の僧
藤原宇合の子孫で伊賀守藤原有家の息子
阿闍梨とは天台宗・真言宗の僧の位

修法の効験で知られ、白河天皇の皇子誕生を祈祷して敦文親王が誕生した事から、約束であった褒美としての三井寺の戒壇院建立を天皇に願い出たが、対抗勢力である延暦寺の反対により実現しなかった。頼豪はこの事を怨んで断食をして命を絶ったと言われる。

鼠の妖術を使う頼豪阿闍梨

伝説

平家物語によれば、頼豪は自分の祈祷により誕生した皇子を魔道に落とす為に断食を続けて100日後、悪鬼のごとく変わり果てて死んだ。その頃から皇子の枕元に白髪の老僧が現れる様になり、とうとう皇子は4歳にしてこの世を去った。

史実では、敦文親王の没年は1077年、頼豪が死ぬ1084年より前に亡くなっているので、頼豪が死んで敦文親王を呪い殺す事は不可能。

源平盛衰記・太平記などによれば、頼豪は髭も剃らず爪も切らず、護摩壇の中に身を置き、怒りの炎に身を焦がして遂には壇上で死んだ。その後頼豪の怨念は鉄の牙に石の体を持った一万四千匹の鼠と化して比叡山に登り、延暦寺の経典や仏像などを食い荒らした。これを頼豪鼠・鉄鼠などという。恐れをなした延暦寺は比叡山の麓にある日吉大社に祠を建てて頼豪の霊を鎮めた。これは鼠の秀倉と呼ばれ現存している。

読本・合巻

頼豪阿闍梨恠鼠伝

曲亭馬琴原作の「頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」では、木曽義仲 の遺児である 美妙水冠者義高(しみずかじゃよしたか) の夢の中に頼豪が現れ、義高 に鼠の妖術を伝授する。

頼豪阿闍梨恠鼠伝

濡燕子宿傘

山東京伝原作の「濡燕子宿傘(ぬれつばめねぐらのからかさ)」では、仙人になった頼豪が相模次郎に鼠の術を術を伝授する。

濡燕子宿傘
濡燕子宿傘

咲替花之二番目

山東京伝原作の「咲替花之二番目(さきかえてはなのにばんめ)」では、頼豪に鼠の術を授かったと称する別の阿闍梨が登場し、天竺徳兵衛に鼠の術を伝授する。

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