刺青図柄の意味 木曽 駒若丸(駒王丸) 義仲

木曽駒若丸義仲 武者絵
木曽駒若丸義仲
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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源義仲

駒若丸 
駒若丸 天狗を懲らしめるの図

源義仲 1154-1184 平安末期の武将
幼名 駒王丸
側室 巴御前
従兄弟 源義平 源頼朝 源義経

挙兵

治承四年(1180)、後白河法皇の第三皇子である以仁王による平家追倒の令旨に呼応して挙兵する。寿永二年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平氏の北陸追討軍を破る。破竹の勢いで京都に入った義仲は旭将軍の称号を得るが、皇位継承に介入して朝廷から疎まれる様になってしまう。

粟津の戦い

もとより頼朝とは関係が悪化していた義仲だったが、最期は頼朝の命を受けた範朝(のりより)義経 兄弟と宇治川で戦って敗れ、逃走するも粟津の戦いで討ち取られます。享年31歳。

源義仲
雨の様に降る矢をかいくぐる義仲 木曽義仲 最後の闘い

従兄弟同士どころか兄弟親子であっても戦ったこの時代の武士ってどんな感じなのでしょう。曲げられない矜恃か権力欲か。まあ、兄弟と言っても一緒に暮らしていなかったり、乳母に育てられたりと、今の普通の家族観とはかなり違うものだった事は確かですね。

因みに平家物語によると、義仲の側室であり女武将であった 巴御前 は、最期まで義仲に付き従おうとしますが、宇治川の戦いで敗北を悟った義仲に諭され、落ち延びて行きます。ええ話や。

木曽駒若丸義仲
木曽駒若丸義仲 芳年筆

「幼少の頃から木曽の山中にて沢山の天狗を懲らしめる。成長して知勇兼備の将となり、平家を責めなびかす。その武功により旭将軍と称する」詞書きより

駒若丸となっているのは江戸時代には実際の侍を描くときには色々な規制があったので、名前を一文字変えたりする事が良くあったためと思われます。

刺青師・龍元

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