刺青図柄の意味 清水冠者義高

清水冠者義高 鼠の術を行ふの図  武者絵
清水冠者義高 鼠の術を行ふの図 
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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清水(須美津/美妙水/志水)冠者義高 しみずかんじゃ(かじゃ)よしたか

源義高 木曽義高ともいう
1173(異説あり)-1184
父: 源(木曽)義仲
母: 巴御前 とする説あり

父・義仲が同じ源氏の頼朝と対立していた為に、11歳の時に(諸説あり)実質的に人質として頼朝と北条政子の娘である大姫の婿となり、鎌倉で暮らした。

        。。。いわゆる政略結婚ですが、義高と大姫は仲睦まじく暮らしていたと言われてます。。。

後に後白河法皇とも対立した義仲が、頼朝の派遣した範頼・義経 討伐軍に朝敵として討たれると、人質だった義高の鎌倉での立場は悪化した。

       。。。頼朝はかつて父・義朝と平清盛が戦った平治の乱に敗走中、平家に捉えられて死罪になるはずの所を清盛の温情により命拾いをしたが、二十数年後にはその頼朝が平家を追い詰めていた。この事を考えれば、後顧の憂いを絶つために頼朝が義高を粛清しようと考えたとしても無理はないかも知れませんね。。。

頼朝が義高を謀殺しようとしている事を知った政子と大姫は、密かに義高を逃す。

元暦元年(1184)四月、大姫の服を着せられ、僅か六名の従者を従えて鎌倉を脱出した義高は父・義仲ゆかりの地、武蔵国男衾郡(むさしこくおぶすまぐん)を目指すが、途中の武蔵国入間河原で謀反人として頼朝の追っ手に捕らえられ斬首された。

この知らせに激怒した政子は、実際に手を下した堀親家の郎党・藤内光澄を打ち首晒し首にした。

      。。。う〜ん、主君の命令を忠実に実行して晒し首とは。。。サムライも不条理な世界に生きていたものですな。。。

政子は義高の霊を鎮めるために入間河原(現在の埼玉県狭山市)に壮麗な社殿(清水八幡宮)を造営して、自ら供養したとも伝えられている。

鳥居
現在の清水八幡宮

義高の死を知った大姫は病に伏せる様になり、それから全ての縁談を拒み続けた後、二十歳の時に病死したという。

後に、この時に入間河原で斬首されたのは実は義高の替え玉であったという話が広く信じられ、頼豪阿闍梨恠鼠伝など、鎌倉脱出後について数々の伝説や物語が伝えられている。

頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)

清水冠者義高 鼠の術を行ふの図 
清水冠者義高 鼠の術を行ふの図 

頼豪阿闍梨恠鼠伝とは1808年に発表された曲亭馬琴の読本。

鎌倉を脱出した義高が諸国遍歴の途中、夢の中に 頼豪阿闍梨 という僧の怨念が現れる。

頼豪は、白河天皇に対する恨みから鼠となって延暦寺の経典を損じたために祠に祀られた事、その祠に義高の父・義仲が参拝し、義仲が征夷大将軍になった時には頼豪悲願の社を再建する事を条件に、義仲に憑いて白河天皇のひ孫である後白河天皇の御所を焼き討ちにした事、義仲の嫡男である義高にその悲願を引き継いで貰いたい事、猫間光実が義仲への恨みからその嫡子・義高を狙っている事などを告げ、義高に鼠の妖術を伝授する。

義高は猫間光実から執拗に狙われながら、鼠の妖術で父の仇・頼朝への復讐に挑む。

復讐に生きる義高、自分の息子の命を引き換えにしてまで義高への忠を貫く烈女・唐糸、父の頼朝への孝と夫である義高に対する貞の間で激しく葛藤する頼朝の娘・大姫を中心に物語は進んで行くが、最後は頼朝の仁智の前に壮大な破局を迎える。

頼豪阿闍梨恠鼠伝 曲亭馬琴著 芳年画
頼豪阿闍梨恠鼠伝 曲亭馬琴著 芳年画

         。。。頼豪阿闍梨恠鼠伝は物語としても非常に面白いので、機会があれば是非読んでみてください。。。

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