雲蝶の三顧茅廬と源太郎の稲村ヶ崎 [曹洞宗吉祥林萬年山 曹源寺] 新潟県

関羽雲長 新潟県
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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令和五年九月中旬 新潟県長岡市の曹源寺に参詣しました。

曹源寺 門

今回は弟子の彫鈴と来ています。

曹源寺御本堂

呼び鈴を押すと住職が応待してくださり 中を拝観させて頂く事が出来ました。

曹源寺扁額

ここのお目当ては石川雲蝶の『三顧茅廬さんこぼうろ』。三国志演義の名場面の一つで『三顧の礼』とも言います。

三国志 三顧の礼

当時すでに将軍として名を挙げていた劉備りゅうびが 軍師を求めて 無名で年少の諸葛亮しょかつりょうの元へ三回訪ねてやっと会う事が出来た という話。

劉備玄徳

この時 諸葛亮はお昼寝中でした。

諸葛亮孔明

このかみ!奴ぁ今日も居ないに決まってますぜ!俺ぁ帰りますよ」と張飛ちょうひ

張飛翼徳

「いいから 黙ってついて来んか!」と関羽。

関羽雲長と劉備玄徳

観る者を射すくめる様な 関羽かんうの鋭い視線が刺さります。

関羽雲長

さすが雲蝶 まるで三人の話し声が聞こえてきそうです。

三国志 三顧茅廬

因みに これと同じ構図の彫り物(彫師不詳)が東京都北区の諏訪神社↓にあるので 元絵があるに違いありません。

三顧茅廬
東京都北区 諏訪神社背面胴羽目

編額の左側も雲蝶作。 札によると『新田義貞公』 初めて見る図です。

新田義貞

『京都の奪還によって足利尊氏が鎮西に逃れる図』とあるので これが新田義貞で

新田義貞

こちらが足利尊氏という事で良いのでしょうか?

〜追記(2023.10.06)これは胸に赤子を抱いているので 三国志演義の名場面 長坂ちょうはんの闘い から「趙雲救幼主ちょううんきゅうようしゅ」です。一魁斎さんにご教示いただきました。

編額を挟んで左右三国志繋がりです。 追記終わり〜

確かに雲蝶の作品に見えますが 右の三顧茅廬に比べるとちょっと落ちるかな という感じ。

あくまで「比べると」です。雲蝶は作品の出来にムラがある様に思います。

雲蝶の欄間二点の他に 小林源太郎の欄間が八点ありました。その内の四点を紹介します。

まずは『新田義貞の稲村ヶ崎』

新田義貞 稲村ヶ崎

倒幕のため挙兵した義貞は 鎌倉攻略の際 龍神に祈誓して太刀を海に投じます。

新田義貞

それに呼応する龍神。

龍神

すると 潮がみるみる退いて行き 新田軍は稲村ヶ崎を突破。この戦いによって鎌倉幕府は滅亡します。

龍神

その右側は『劉備玄徳りゅうびげんとく 的盧てきろに乗り檀渓だんけいを飛ぶ』。『日本武尊命』とある札は多分 間違いです。

劉備檀渓渡河

劉表りゅうひょうの元に身を寄せていた劉備玄徳。劉備を疎ましく思い 排除しようと躍起になる蔡瑁さいぼうに謀殺されかけます。計略に気づいた劉備は単騎脱出。

劉備玄徳的盧に乗り檀渓を飛ぶ

的盧てきろに乗り 駆け飛ぶ事二里あまり。道は途絶え 「白波天にみなぎり奔濤ほんとう渓潭けいたん」む激流が行手を阻みます。

「激浪は人馬をつつみ、的盧は首をあげ首を振ってなみと闘う。そしてからくも中流を突き進むや、約三丈ばかり跳んで、対岸の一石へ水けむりと共に跳び上がった」(吉川英治 三国志第四巻)

劉備玄徳

お次は『神功皇后じんぐうこうごう

神功皇后

札には『神功皇后が身ごもったまま新羅(朝鮮半島諸国)に親征の姿を鏡に写している図。後に新羅から還り、筑紫に於いて誉田別皇子(応神天皇)を産む。』とあります。

神功皇后

具体的な話は知らなかったのでググると 佐賀県に 神功皇后が三韓征伐の際に戦勝を祈願して 自らの御霊を込めた鏡を納めた鏡神社 というのがある様です。

神功皇后

その隣。札には『天照大神 <天岩屋戸の変> 』とあります。

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『天照大神が素戔嗚尊の暴状を怒り、天岩屋に籠ったため、天地が常闇となり万妖が生じた。神々が相談して種々物を飾り、天児屋根命が祝詞を奏し、天鈿女命が舞ったところ、大神が出てきて世が再び明るくなったという神話の一部の図。』

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となっていますが これは天岩屋戸でない事は明らかで 侍と何かだと思いますが 題材は分かりません。

?

烏帽子型兜えぼしなりかぶとは加藤清正が有名ですが これは兜ではなく 普通の烏帽子かも知れません。

加藤清正?

光を放つ神仏っぽい女性と松明を持った侍 という構図は お世話になっている錺さんのブログ「錺の日記3」で見た事があります。

神奈川県海老名市 八坂神社背面胴羽目

〜追記(2023.10.06) これは「仁田四郎忠常の人穴ひとあな」。侍は仁田四郎忠常で 神仏っぽい女性は浅間大菩薩の様です。

仁田四郎忠常の人穴

『鎌倉幕府第二代将軍源頼家は建仁3年(1203年)6月、富士の狩倉で巻狩を催し、人穴を新田忠常(仁田忠常)に調査させている。その後、忠常が洞内で災難にあった内容が綴られ、最後に「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は「浅間大菩薩の御在所である」と記されている。Wikipediaより』

一魁斎さんよりご教示いただきました。 追記終わり〜

他に 源太郎彫りの花鳥の欄間が四点と彫師不明の欄間が多数 二百体を超える仏像や著名な画家や書家の作品など 美術館といっても良い位に沢山の美術品がありました。

曹源寺本堂内部

懇切丁寧に案内 説明してくださった 慈海住職に感謝いたします。合掌。

刺青師・龍元

095(2023.10.05)

コメント

  1. 一魁斎 より:

    更新お疲れ様です。

    『京都の奪還によって足利尊氏が鎮西に逃れる図』のキャプションの彫り物は、明らかに武装が唐様で、拡大画像を見ると懐に赤子の姿が見えますので三国志の長坂の戦いでの趙雲と思われます。

    また、天岩戸となっている彫り物ですが、こちらは源頼家の命を受けて富士山麓の人穴を探索した仁田四郎忠常が、最深部で浅間大菩薩に対面する場面で差し支えないと思います。

    • こんにちは 一魁斎さん

      確かに画像を拡大すると赤子の姿が見えるので、ご指摘の通り、これは三国志の長坂の戦いでの趙雲ですね。これは完全に手間を惜しんだケアレスミスです。反省します。

      仁田四郎忠常の人穴については、全く知りませんでした。探すと浮世絵がありますし、Wikipediaにも項目が立っていますね。

      一魁斎さんには全く脱帽です。ご教示ありがとうございます。

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