刺青図柄の意味 関羽雲長

関羽雲長 武者絵
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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関羽雲長(160〜220)
中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍

姓は関、いみなが羽、あざなは雲長 元の字は長生ちょうせい
諱とは本名の事。古来より漢字文化圏では諱で呼びかける事は非常に無礼であるとされ、親や主君意外の人が呼び掛ける時には代わりに字が用いられた。

三国志演義においては五虎大将軍筆頭として、張飛趙雲、馬超、黄忠と並び称され、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。

身の丈9尺(約216cm)、2尺(約48cm)の髭、紅顔で重さ82斤(約18kg)の青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうと呼ばれる大薙刀を持つ。愛馬は一日に千里を駆けると云われる赤兎馬せきとば。長い見事な髭を蓄えていた事から美髯公びぜんこうとも呼ばれる。

三国志演義

「三国志」とは劉備の蜀・曹操の魏・孫権の呉の三国が覇権を争った三国時代を著した歴史書。「三国志演義」は史実を元に創作された歴史小説である。日本への伝来時期は定かではないが、特に江戸期に大流行、盛んに浮世絵や刺青の題材にされた。水滸伝・西遊記と並んで中国三大奇書の一つに数えられる。

桃園結義(とうえんけつぎ)

桃園の誓いとも称され、三国志演義などの序盤に登場する説話。劉備玄徳りゅうびげんとく関羽雲長かんううんちょう張飛翼徳ちょうひよくとくの3人が、義兄弟となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行った。

桃園結義
桃園結義 茨城県つくば市日枝神社拝殿内の奉納絵馬 左から劉備玄徳・張飛翼徳・関羽雲長

言笑自若(げんしょうじじゃく)

関羽は樊城はんじょうの戦いで肘に毒矢を受け、骨にまで毒が染み込んだために、その痛みに悩まされていた。名医・華佗かだに肘を切開して骨を削り取らせる事になったが、囲碁の最中であったにもかかわらずその場で切開させ、痛むそぶりも見せずに酒や肉を飲食し、平然と談笑、囲碁を差し続けていたという。

言笑自若
関羽雲長 国芳画

関羽の最後

関羽が魏の樊城はんじょうを攻めている隙に、呉の武将・呂蒙りょもうの計略により拠点である荊州けいしゅうを取られてしまった。荊州奪還のため関羽は樊城の囲みを解いて引き返すが、前方の呉軍、後方の魏軍に挟まれ、味方の寝返りや兵の脱落などで次第に進退極まって行く。

最後の望みと救いを求めた劉封りゅうほう(劉備の養子)と孟達もうたつに援軍を拒まれて孤立無援になったところを、ついに呉軍に捉えられた。

かねて関羽の武勇を評価していた孫権そんけん(後の呉王)に「この孫権に従ってはいただけないのか?」と尋ねられ、「青い眼の小童こわっぱ紫髯しぜん鼠輩そはい!余は劉皇叔りゅうこうしゅく(劉備)と桃園に兄弟の誓いをたて、漢の皇室をたてようと願うものだ、こうなった以上は一死あるのみ、くだらん口をきくな!」と大喝。息子の関平らと共に斬首された。

関羽雲長
青龍偃月刀で戦う関羽 龍元画

関羽の霊

関羽の死後、呉で戦勝の宴が開かれるが、そこで呂蒙が突然、主君である孫権の胸倉を掴んで押し倒し、「我こそは漢寿亭侯かんのじゅていこう・関雲長である」と大喝。孫権は震えだし、将士一同と共にその場に這いつくばった次の瞬間、呂蒙は全身から血を噴き出して絶命した。

劉備の報復を恐れた孫権は、打倒関羽が魏王・曹操そうそうの望みであると見せかける為、塩漬けにした関羽の首級を曹操の元へ送った。曹操が戯れに「変わりはないかの」と首級に声をかけると、関羽は目を見開き、髪を逆立て曹操を睨みつけた。驚きのあまり失神した曹操はその後、関羽の亡霊が見える様になり、ついには衰弱死してしまう。

孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬り、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬ったという。


死後、後世の人々に神格化され、関聖帝君・関帝聖君として信仰を集めている。

三国志の中では一番の人気。関羽が斬首される場面で涙した人も多いのではないでしょうか。刺青でも三国志と言えば、関羽が一番人気ですね。

刺青師・龍元

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