源頼政
1104-1180
平安末期の武将 源頼光 を祖とする清和源氏の嫡流である摂津源氏の出身
文武両道で歌人としても著名
源頼政の鵺退治
平安末期、天皇の御所・清涼殿に夜毎黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、遂に二条天皇が病についてしまった。側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事を止ませた前例に倣い、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。
頼政はある晩、家来の 猪早太 を連れて、先祖の 源頼光 が夢の中で得たと伝わる「雷上動」という弓と「水破」と「兵破」という二本の矢を手にして怪物退治に出向いた。
清涼殿を黒煙が覆い始めたので、頼政はまず黒鷲の羽で作られた「水破」を黒煙の真ん中辺りに放った。驚いた怪物の鳴き声でその位置を確かめた頼政は、次に山鳥の尾で作られた「兵破」を射った。すると悲鳴と共に何かが落下した。そこをすかさず 早太 が取り押さえて、「骨食」という短刀でとどめを刺した。
鵺
様々な文献に登場し、「古事記」や「万葉集」にもその名が見られる。ヒョーヒョーと不気味な声で鳴き、当時の貴族の間で恐れられたという。
・顔は猿
・胴体は狸
・手足は虎
・尾は蛇
であるとされる。
・背は虎
・足は狸
・尾は狐
や
・頭は猫
・胴は鶏
など、文献によって違いがある。
歴史
頼政は源平合戦のきっかけを作ったとされる人です。この頃は興味深い人が沢山いるので整理してみますね。
保元の乱 (保元元年 1156)
皇位継承問題などから朝廷が分裂し、後白河天皇と崇徳上皇が争った。後白河天皇が勝利し、負けた崇徳上皇側についた 源為朝 は伊豆諸島へ流刑。
平治の乱 (平治元年 1159)
朝廷の内紛の中で、平清盛と源義朝 (義平・頼朝・義経 兄弟の父) が覇権を争った。態度を保留していた頼政の軍に、義平 が勘違いから攻め込んでしまい、結果的に頼政は平氏側についた。因みに頼政は摂津源氏と呼ばれ、河内源氏と呼ばれる義朝とは比較的遠い系統であるとされる。
義朝が味方の裏切りにより殺害されたために清盛側が勝利し、嫡男の 義平 は斬首、三男の頼朝は流刑、九男の 義経 は鞍馬寺へ預けられた。
平治の乱の後、急速に平氏が台頭し、「平家にあらざれば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇る。
河内源氏が没落していく一方、保元の乱・平治の乱で勝者側についた源頼政は朝廷の中で出世、源氏としては破格の従三位(従三位以上で公卿)まで登り詰めた。
以仁王の挙兵 (治承四年 1180)
皇位継承問題や平家の専横に不満を持っていた後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が、頼政の勧めにより全国の源氏に平氏追討の令旨を発し、平氏打倒・武装蜂起を促す。この以仁王の令旨によって、源頼朝、源義経、木曽義仲 など全国の源氏が一斉に挙兵し、平家は滅亡への道を辿る事になる。
以仁王自身も挙兵を試みたが、その前に内通により平氏方に計画が漏れ、謀反人として追討を受ける。
頼政は以仁王を逃す為に平等院に籠って抵抗するが、多勢に無勢、最後には辞世の句を残して自害した。享年七七歳
『埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける』
なぜ頼政は平氏に反旗を翻したか
平家物語では、頼政の嫡男の仲綱に対し、清盛の三男・宗盛がひどい侮辱を与えたからとなっている。他に
・皇位継承問題に不服があったとするもの
・挙兵を持ち掛けたのは以仁王からであったとするもの
・そもそも以仁王との共謀自体が平家物語の虚構であるとするもの
など、諸説あるが真相は不明。
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