刺青図柄の意味 悪源太義平

悪源太義平 武者絵
悪源太義平
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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源義平

1141-1160 平安時代の猛将
源義朝の長男
頼朝・義経 の異母兄
木曽(源)義仲 の従兄弟
通称 鎌倉悪源太 (悪源太・鎌倉源太とも言う)

鎌倉悪源太

十代前半で京にいる父に代わって東国を担当していた義平は、15歳の時に領地争いから叔父の源義賢(みなもと の よしかた 木曽義仲 の父)を攻め殺して武名を上げ、悪源太と称された。

う〜ん、数えで15というと今の14歳、中学2、3年生か。。。有り得なくはない、かな。まあ、半分伝説ですから。

悪は「強い」「猛々しい」の意味で「鎌倉悪源太」は「鎌倉の猛々しい源氏の長男」という事。

平治の乱

父・源義朝と平清盛が覇権を争った平治の乱 (平治元年 1159) で長男の義平は次弟の朝長・三弟の頼朝・四弟の義門と共に父に付き従う。

六波羅合戦

義平は源氏勢が六波羅に向かう途中、形勢を伺って六条河原で戦況を傍観していた 源頼政 の軍勢に勘違いから攻め込んでしまった。これにより、頼政 は平家側につく事になってしまう。義平を好意的に描く「平治物語」においても、これは義平の若気の至りだとしている。

義平は一度は六波羅の清盛を追い詰めるが、平家の圧倒的な兵力を前に敗走。途中離れ離れになった父・義朝の死を聞いた義平は、父の無念を晴らす為に清盛の命を狙って近江国に潜伏するが、執拗な残党狩りにあって生け捕られてしまう。

この戦いの後、当時13歳だった頼朝は伊豆に流刑、赤ん坊だった 義経 は鞍馬山に預けられる事になる。

雷伝説

清盛の尋問を受けた義平は
「生きながらに捕らえられたのも運の尽き。俺程の男を生かしておくと何が起こるか分からんぞ、早く斬れ」
と言い放った。

清盛の命により六条河原に引き立てられた義平は太刀取りの難波経房 (なんばつねふさ) に言った。
「貴様は俺を切る程の男か?名誉な事だぞ。上手く斬れよ、さもないと喰らいついてやる」
「首を斬られてどうやって喰らいつくのだ?」
「直ぐにではない、雷神になりお前を蹴り殺してやるのだ、さあ斬れ!」

悪源太義平
悪源太義平

こうして義平は斬首された。享年20歳。義平は斬られるや否や自分の首を脇に抱えて突っ伏し、脇から首を引き剥がす事は出来なかった。

それから8年後、難波経房は清盛のお伴で摂津国布引の滝に行った際、俄かに豪雨になり、雷に打たれて死んだという。

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