絵馬も気にしてみました [日枝神社] 茨城県

日枝神社  神社仏閣
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

刺青師・ 龍元をフォローする

令和三年新春巡礼の旅。茨城県つくば市の日枝神社に参拝しました。

日枝神社鳥居
日枝神社拝殿

貞観二年(860)創立
御祭神 大山咋神おおやまくいのかみ 大己貴神おおなむちのかみ

拝殿はガラス張りで中がよく見えたので、普段はあまり気に留めない奉納絵馬が目に付きました。

日枝神社奉納絵馬

安政二年(1856)と書いてあります。画題は「黄石公と張良」と思われます。

黄石公と張良

向かって右側の長押にも絵馬が掛けられていました。

日枝神社日枝神社奉納絵馬

弘化二年(1845)の奉納。こちらは三国志の「桃園結義」でしょうか。左から劉玄徳、張飛、関羽の様に見えます。最近、三国志を読んでいるので、どれも三国志に見えてしまいます。

桃園結義

〜追記 21.01.13 ↑三国志の桃園結義で間違いないようです。三国志研究家のKYOさんにお墨付きをいただきました。耳が肩に届くほど長いというのが劉玄徳の特徴だそうです。 追記終わり〜

御本殿の方へ回ります。

日枝神社

御本殿向拝には日枝神社なので猿。

日枝神社御本殿向拝

元々は彩色されていた様子。

猿
猿

松ぼっくりまであって、中々緻密な彫りです。

猿

残念ながら、胴羽目と脇障子に彫り物は無し。

日枝神社御本殿

右面には珍木というか、ヘラジカの角みたいな形をした木が掛けられていました。

日枝神社御本殿

木には文字が書いてありますが、もちろん私には読めません。

日枝神社御本殿

斗栱間の蟇股には二十四孝の孟宗の彫り物がありました。

二十四孝 孟宗

その隣はこれも二十四孝から、楊香。父親がいませんが、もう食べられてしまったのか。「なんて事するのよ〜!」

二十四孝 楊香

背面と左面の蟇股は鳥と華と唐獅子だったので割愛。↓こちらは正面左端の蟇股。「許由巣父きょゆうそうほ」ですね。牛を引いているのが巣父、滝のそばで電話をしているのが許由。

許由巣父

こちらは正面扉の上。神事を執り行っている所の様に見えますが、詳しい事は分かりません。

ハテナ

右側の蟇股には「山を仰いで一休みする人」。何かの場面でしょうか。

山を仰いで一休みする人

↓こちらは長福寺大師堂の唐破風下にあった彫り物。こちらにも「山を仰いで一休みする人」が彫られています。やはり、何か特定の場面なのだと思われます。

山を仰いで一休みする人(長福寺大師堂)

やはり、胴羽目がないと今ひとつ迫力に欠けますね。

刺青師・龍元

005(2021.01.12)

コメント

  1. onijii より:

    onijiiです。
    こちらも勤務先の近く。
    向拝の猿がお気に入りです。
    松ぼっくりまであったんですね!

    調べてみると安政2年や弘化2年は、
    黒船が来航した1853年頃!
    歴史を感じます!!
    絵馬も味がありますねえ!!!

    • 龍元 より:

      黒船ですか。当時の為政者はテンヤワンヤだったんでしょうね。

      ここはガラス張りで絵馬が良く見えたのは嬉しいですが、陽の光で劣化が早まるのが心配ですね。

  2. 教団 より:

    こんにちは、Kyoです。

    劉備の風貌について若干補足しますと、歴史書(正史『三國志』)では「身長は七尺五寸(約175cm)、腕は膝に届き、耳は大きく自分の耳を見ることが出来、鬚髯は薄い 」と記録されています。
    『三国志演義』をはじめとする物語上では上の記述に加えさらに「顔は玉のように白く、唇は朱を塗ったように赤い」と設定が追加されています。

    さて奉納絵馬に描かれる劉備像は烏帽子のような被り物を戴いている事が多いのですが(こちらをご参照ください。
    https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20200912/1599890400
    )、関羽と同じような幘を被っている劉備は初めてみました!立派な福耳ですし、まるで仏像のような穏やかな像容ということも非常に興味深いです。
    奉納絵馬だけでなく寺社彫刻も非常に見応えある神社ですね!

    • 龍元 より:

      このバンダナみたいな物は幘というのですか。
      確かにこれのせいで劉備らしくなくて、お尋ねしました。それに随分と貫禄がありますね。私の読んでいる吉川英治の版では、桃園結義の頃は随分と若々しく書いてあった様に思います。
      色々と見ていくうちに段々解る様になれたらと思います。ありがとうございます m(__)m

タイトルとURLをコピーしました