令和三年二月、群馬県高崎市の諏訪神社に参拝しました。
鳥居をくぐって直ぐ左へ直角に曲がると拝殿があります。
天正年間(1573-93)創建
明治三十九年(1906)社殿全焼
明治四十三年(1910)拝殿再建
昭和十年(1934)本殿再建
御祭神 建御名方命 八坂刀売命
ここも御本殿雨晒しです。御本殿再建昭和十年と比較的新しいので、状態は非常に良いです。でも新しいとは言ってももう築90年近くなるので、早めに対処した方が良いとは思います。
彫り物は向拝木鼻、正面扉脇板、胴羽目、脇障子、その他桁隠しや懸魚などにあり、縁下には全く彫り物がありません。年代的な傾向でしょうか。
正面扉脇板には龍がありました。
御本殿右面。
胴羽目は新田義貞の稲村ヶ崎。南は海、東西は山に囲まれた天然の要害である鎌倉を攻める際、義貞が海に太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引いて稲村ヶ崎を徒歩で突破できた、という太平記の名場面。
懸魚には応龍がありました。今応龍をやっているお客さんがいるので、注目しています。尻尾の形が後期型。
御本殿背面。
胴羽目は楠木正成正行親子の櫻井の別れ。湊川の戦場に赴く際、死を覚悟した楠木正成が数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せ、帝より下賜された菊水紋の入った短刀を授けて別れを告げる、太平記の名場面。
御本殿左面。
胴羽目はヒッピーが木にいたずら書きをしている様に見えますが、これは児島高徳の十字の詩。元弘の変で隠岐へ流される途中の後醍醐天皇の行在所に忍び込み、桜の幹に「天莫空勾践時非無范蠡」(天は勾践を見放すようなことはしない 時が来れば范蠡が現われる)と記して天皇を励ました、という太平記の名場面です。
勾践というのは中国南北朝時代の王で范蠡はその忠臣。不遇の天子が忠臣によって復活した例もあります、だからその時を待って下さい、という意味だそうです。
こちら側も懸魚は応龍ですね。こちらは尻尾の形が前期型。
どの面も人物が大きく、迫力のある仕上がりになっています。
三面とも見事に昭和初期の皇国史観に彩られた画題の選択になってますね。昭和五年に建立された千葉県の戸神宗像神社と同じ画題です。
三人とも現代では知名度が低いですが、調べるとただの忠臣ではなく、結構アクの強いならず者だったりして面白いです。
刺青師・龍元
048-01 (2021.03.24)
コメント
onijiiです。
拝殿は風格のある見事な造りですね!
昭和時代の凄腕の彫り師さん。
丹精込めて彫ったんでしょうねえ。
いい顔してますねえ。
ここで迷路神社NO.1の戸神宗像神社が
出てくるとは驚きました。(笑)
質実剛健を良しとする時代の流れの中で神社の装飾彫刻の数も減って、宮彫り師は行き場を失って行った、と読んだ事があります。
そんな時代には太平記が受け入れやすかったのでは、と推測しています。