令和三年七月、埼玉県毛呂山町の十社神社に参拝しました。
由緒などは分かりませんでした。
裏へ廻ります。御本殿覆屋の格子窓は高い位置にあったので脚立を使用。
立派な御本殿です。
向拝中備は定番の龍。木鼻の上の組物にも小さな龍頭があります。
御本殿右面。
胴羽目は二十四孝から董永。
幼くして母を失った董永は父親に孝行を尽くしましたが、父が亡くなった時に葬式を出すお金がなく、身売りをしました。
その孝心に感じた天が織姫を使しました。織姫は妻となって布を織り、たちまち葬式代を返す事が出来ました。
自由の身になった董永でしたが、役目を終えた織姫は天に帰らなければなりません。感動のお別れのシーン。
脇障子は龍。
背面には窓が無かったので斜めから。
胴羽目は二十四孝から孟宗。筍好きな病床の母のために、雪の中あるはずの無い筍を泣きながら探す孟宗。
天は彼の孝心に感じて、雪の下から筍を生やしました。
御本殿左面。
胴羽目は二十四孝から郭巨。母を養うために口減らしに子を埋めようとする郭巨夫妻。天は孝心に感じて黄金の釜を与えました。文献によって「黄金の釜」だったり「黄金の詰まった釜」だったりします。
郭巨にはいつもツッコミたくなります。
これは孝行人の顔ではない。母親の事などすっかり忘れて、完全に金に目が眩んでいます。
子を埋めようとしてご褒美を貰う話、郭巨。
こちらの脇障子は撮るのを忘れましたが、龍です。
素晴らしい御本殿でした。
刺青師・龍元
101(2021.08.23)
コメント
onijiiです。
孝行話なので、二十四孝は好まれたようですね。
あちこちで見かけます。(笑)
確かに金に目が眩んだ顔つきをしてますね。
以前、桜井の別れでもこのような顔つきが
あったような・・・。(笑)
江戸時代には間引きが戒められていたようです。
「このようなことをしてはいけませんよ」という
ことを強調するためにあえてこのような顔つきに
したような気がします。(笑)
江戸時代には間引きは戒められていたのですか。
そりゃそうですよね。江戸時代が今とそれ程感覚が違うとは思えませんよね。
Wikipediaによると福沢諭吉も郭巨に対しては「鬼と云うべし」と明確に否定してる様ですし。
やっぱりこれは彫師の郭巨に対するアンチテーゼという事なんですね。
勉強になります
m(__)m