令和二年八月吉日、埼玉県狭山市の堀兼神社に参拝しました。
鳥居をくぐると隋神門があります。これは狭山市指定文化財になっています。
堀兼神社拝殿。塚の上に建っていて、元々は浅間神社と呼ばれていたそうです。
塚を降りて、境内の右側に進むとお目当ての社があります。社殿前に『下浅間神社』の石碑があるので紛らわしいですが、ここは日枝神社。
御本殿は浜床や高欄などが少し荒廃してしまってますが、まずまずの保存状態です。
扉脇には昇り降りの龍がありました。
左面胴羽目。三人の唐子が遊んでいる様に見えますが、もしかしたら二十四孝の田真兄弟かな。親の遺産を三兄弟で平等に分けようと決めて、庭の立派な木も三等分にしようとしたら枯れてしまった。木にも心があるさ、と切るのをやめたら木はまた元気になったという話。
脇障子は日枝神社だけに猿の親子。画像が良くないですが、よく見ると親猿の背中にも一匹子猿がいます。
その子猿は裏で桃を取ろうとしています。
背面胴羽目は俵藤太秀郷龍宮より鐘を得るの図です。
これは、龍宮を困らせていた大百足を藤原秀郷が退治したので、龍神がお礼に金銀財宝と鐘を秀郷に贈ったという場面ですね。
秀郷の背後の米俵は俵藤太を暗示しているのか、それとも単に贈られた財宝の一部なのか。鐘には仏と天女の紋様が彫ってあります。
この鐘には後日談があり、秀郷はこれを現滋賀県大津市にある三井寺に寄進したのですが、数百年後、三井寺と対立していた比叡山延暦寺の僧兵だった弁慶が力づくで奪い取り、比叡山の上に担ぎ揚げます。
結局、弁慶は鐘を谷底に放り投げてしまうのですが、後日、鐘は三井寺に戻されて「弁慶の引き摺り鐘」として今も霊鐘堂に奉安されています。その時に付いたと言われる傷も残っています。
こういう枝の物語が繋がってるから日本の文化って奥が深いなぁと思います。
右側脇障子の裏面は桃と猿の尻。
こちらが表面。桃を食べてる猿とそれを見上げる、裏で尻を見せていた猿。
右面胴羽目は司馬温公の甕割り。
特に脇障子を見て思いますが、彫り自体はけっこう荒削りです。
素晴らしい彫り物でした。
刺青師・龍元
187(2020.09.04)
コメント
onijiiです。
猿も好物ひとつ。見つけると喜んでます。(笑)
子猿はどこかな?と目を凝らしました。
裏面でしたか。うふふ。
お尻といい、作者の遊び心がいいですねえ。
ここで弁慶が出てくるとは。面白いですね!
猿もですか。
では日枝神社巡りなんかしたら幸せ一杯になれますね!
二十四孝も悪くないですが、
やはり日本図柄は馴染みがあって面白いです。