刺青図柄の意味 俵藤太の大百足退治

俵藤太の大百足退治 武者絵
俵藤太の大百足退治
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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俵藤太(田原藤太)藤原秀郷

平安時代中期、下野(現在の栃木県)の貴族・武将
生年891 または不詳 没年958 または991
奥州藤原氏、小山氏、結城氏らの祖とされる
大百足退治の説話、将門討伐などで有名
俵は田原に住んでいたからという説がある
藤太は藤原氏の太郎・長という意味

平将門が兵を挙げて関東8カ国を制圧した天慶の乱(天慶二年 西暦939年)の翌年、将門の本拠地である下総国(現在の茨城県)猿島郡を襲い、乱を平定した。この時、秀郷は宇都宮大明神で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。

この功績により、従四位下、下野守・武蔵守に任じられ、また、死後正二位を追贈された。

百足退治伝説

近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は実は琵琶湖の龍女の仮の姿で、「一族が三上山の大百足に苦しめられている」と、藤太に百足退治を懇願した。

俵藤太秀郷

藤太が三上山に着くとそこには山を七巻きするほどのとてつもない大百足がいた。強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返された。百足は人の唾に弱いという話を思い出した藤太が、三本目の矢に唾をつけて射ると百足を倒す事が出来た。

俵藤太の大百足退治
俵藤太の大百足退治

藤太は謝礼に宝物を贈られ、龍宮に招かれた。

その時に贈られた鐘は滋賀県大津市の三井寺に寄贈されたという。

後に、三井寺と争った比叡山の弁慶が鐘を奪って比叡山に担ぎ上げたが、鐘が帰りたいと鳴ったので谷へ投げ捨てたという「弁慶の引き摺り鐘」はこの鐘である。

因みに三井寺というのは頼豪阿闍梨の鉄鼠伝説でも有名。

刺青師・龍元

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