令和二年六月吉日、長野県千曲市治田神社境内社の高市社に参拝しました。ここには三社の高市社があり、その内の二社に彫り物がありました。
治田町高市社
御由緒
天保年間(1831−45)現社殿建立
明治四十一年(1908)治田神社境内に移築
彫師 小林五藤茂喬
小さめの社殿に彫り物が満載です。
美術家の佐藤秀治は『江戸宮彫りは刺青に呼応したと思われる。「社殿全体を余す処なく埋め尽くす」木地彫りは、「人肌カンヴァスを埋め尽くす」刺青に通底する』と考察しています。
まさにその通りですね。日本伝統刺青も「総身彫り」が最終形として想定されていますし、宮彫りも彫れる処全てに彫り物を施すのが究極の形です。
浮世絵・刺青・宮彫りの三つは、互いに影響を与えながら発達した江戸文化の到達点だと思います。不必要な物、ただの道楽、まさに徒花ですね。
右面胴羽目は「応神天皇誕生」。
左側に応神天皇を抱く武内宿禰がいて、中央では神功皇后が珍しい事に琴を弾いています。調べるとこれは「弾琴巫術 だんきんふじゅつ」と言って、巫女(シャーマン)である神功皇后が琴を弾いて神を降している処の様です。
御本殿左面。
胴羽目はお馴染みの「須佐之男命の大蛇退治」。
御本殿背面。脇障子は裏表に彫り物がありましたが、左面側は無くなっていました。右面側は表が「竹林の虎」、裏が「高砂の嫗」。きっと左側面の裏は「高砂の尉」だったのでしょう。ここに移築する前は近くの道っ端に鎮座していたらしいので、その頃に無くなってしまったのでしょうか。
胴羽目は「黄石公と張遼 張良」ですね。ここは日本神話でキメて欲しかったなぁ。
上八日町高市社
御由緒
創建年代・現社殿建立年代不詳
彫師 小林五藤茂喬
こちらも彫師は小林五藤茂喬の様です。小林五藤とは後藤流の流れで、正式な名前は「小林佐太郎藤原茂喬」(長い!)、号が「五藤」だそうです。
今、写真で見ると左面の妻に力神がいますが、覆屋の左面背面が板で覆われていたのと、胴羽目が無かったので良く確認せず、現場では気が付きませんでした。残念。
治田町のを見た後だと、こちらは彫り物が控えめに感じてしまいます。
御本殿右面。こちら側には力神はいません。
胴羽目のこの場面はどこかで見た事があると思って調べてみると、国芳や芳年など名だたる浮世絵師が作品化していますね。当時は誰でも知っていた話なのでしょう。
画題は「忠盛灯籠」もしくは「油坊主」。出典は平家物語です。
白河法皇が愛妾の祇園女御に逢いに行く途中、八坂神社の境内を通りかかると、前方がぼんやりと光っている。鬼であろうと慄いた法皇が、平忠盛(清盛の父)に物の怪を討ち取る様に命じたが、忠盛は直ぐに打ち掛かろうとはせずに、様子を見て生け捕りにした。物の怪の正体は、灯籠に火を灯して回っていた寺の老僧であった。無益な殺生をしなかった忠盛の思慮深さに人々は感心した、という話。
構図が一番近かったのが、長谷川貞信の「日本略史図 平忠盛」です。
この話には後日談があって、感心した白河法皇は褒美に自分の愛妾の祇園女御を忠盛に与えた。この時すでに祇園女御は懐妊していて、生まれた子が平清盛になった、という話。
当時はこれは名誉な事だったのか。う〜んまあ、僕の近くでもこんな話を聞いた事があります。ちょっと僕は嫌ですけど。。。
珍な彫り物に二つも出逢えて少し興奮気味でした。
刺青師・龍元
151(2020.07.17)
コメント
onijiiです。
あちこちの力神を紹介していただいてたのですね!
うかつにも、今日気が付きました!!
長野県も力神が多いようですね!!!
このところ力神の新規発見が少なく、テンションが
下がってました。毎度ありがとうございます。
励みになります。(笑)
長野は鬼面か力神がかなりの確率でありますね。まだ他にいくつか発見した神社があるのでお楽しみに。