令和七年十一月上旬 山梨県大月市の春日神社に参拝しました。

御由緒
大同三年(808)創建
徳治元年(1306)社殿消失
文和二年(1353)現地遷座
文化六年(1809)現本殿新築
天保二年(1831)外壁彫刻施工
御祭神 天児屋根命 同姫大神 武甕槌命 経津主命

御本殿外壁の彫刻は 天保二年(1831)に後付けされたそうです。

確かに水引虹梁の蔦様の彫り物を見ると後から付け足した感じ。

唐破風下の応龍。

中備の龍。

中備なども後補なのかも知れません。

正面扉脇にも彫刻がありました。

左側は 瓢箪から駒を出す 張果老。

右側は 三本足の蝦蟇を頭に乗せる 蝦蟇仙人。

右面です。外壁の彫刻が後付けという事ですから 胴羽目や腰羽目も後付けという事なのでしょう。

胴羽目は仙人の烏鷺。

木こりの王質が山に入ると 仙人が碁を打っていたので しばらく眺めていました。

「おい そこな青年 帰らんのか?」

王質が我に還ると 斧の柄が腐るほど年月が経っていました という話。

木階下には 葡萄に栗鼠 桜散し の彫刻。

その横には 李白観瀑。こんな奥まった所にひっそりと佇んでいます。木階の柱の陰で この位置から滝は見えません。

腰組が立派です。

腰羽目は2点で1組 司馬温公瓶割です。

司馬温公が子供の時 水の入った大瓶で遊んでいて中に落ちた友達を助ける為に 高価な大瓶を躊躇なく石で割った という話。

腰物下の持送り 中央は波の見立て獅子です。

脇障子は紅葉に鹿と隠者風の人物。

これは伯夷叔斉兄弟の内のどちらかでしょう。

古代中国・殷代末期の孤竹国の王子だったが 王位につく事を潔くとせず出国。兄弟は周の武王に仕えるが 諫言を受け入れない主君の禄は食めないと言って山へ篭り 山菜を食べて餓死した という話。

背面です。

胴羽目は三国志演義から 桃園結義。桃園の誓いとも称され 劉備・関羽・張飛の3人が 桃園にて義兄弟となる誓いを結び 生死を共にする宣言を行った という話。

虎髭で恐い顔の弟・張飛翼徳。

髭が自慢の次兄・関羽雲長。

長耳の長兄・劉備玄徳。

腰羽目は鯉です。

左面。

脇障子は 蟠桃園の主人で 全ての女仙を支配する最上位の女神 西王母です。

梅・桃・桜の花は似ていますが 基本的にはどれも花弁は5枚で
- 花びらの先端が丸い 梅
- 花びらの先端が尖っている 桃
- 花びらの先端が割れている 桜
と私は判別しています。しかし 脇障子の西王母 背面の桃園結義 木階下の桜散し の花は全部 梅の様に花の先端が丸いです。中には花弁が6枚の物もあります。そういう事にあまり拘らない人だったのかも。
胴羽目は 許由巣父。

堯帝に帝位を譲ろうと言われ「穢らわしい事を聞いた」と その流れで自分の耳をすすぐ 許由。

箕山に隠れてしまったといいます。

巣父もまた 堯帝に帝位を譲ろうと言われて拒絶した高士です。

巣父は牛に水を飲ませようと川に向かっていましたが 許由が耳を洗ったと聞いて「牛に汚れた水を飲ませるわけにはいかぬ」と立ち去ったと云います。

腰羽目は 唐子遊び。

唐子たちが 非常に生き生きと遊んでいます。

最初 馬の生首を持っているのかと ギョッとしてしまいましたが よく見たらこれは竹馬ですね。

木階下と腰組の間(この部分の名称が分かりません)は菊慈童です。

慈童は宦官に妬まれて過失を咎められ 流刑になりますが 菊の露を飲んで不老不死の仙人になりました。

人物彫刻が非常に充実した 見どころの多い御本殿でした。
刺青師・龍元
075(2025.12.15)

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