令和六年五月下旬 埼玉県幸手市の幸手市郷土資料館を訪れました。
この日は休館日ではない事を確認して行ったのですが シャッターが閉まっています。
閉鎖されてしまったのか!と思いましたが 念の為 裏側に廻ると こちらが入り口でした。
こちらのお目当ては 山下家の諏訪神社御本殿。元々は個人所有で 近年幸手市に寄贈された物らしいです。
明治四十五年(1912)社殿新築
近年 幸手市に寄贈
彫師 後藤義光(義雄)
左側脇障子は唐獅子牡丹です。
正面扉脇の龍。
建立したのは 肥料屋を営んでいた山下清平さん。
清平さんは胃が弱く その治癒祈願のために 駒木諏訪神社からの分霊を祀ったそうです。
胃が弱いからって 個人でこんな立派な社殿を建ててしまうなんて。。。
肥料屋なんて言うと 小さな商店の様な響きですが 問屋か何か手広く商いをやっていたに違いありません。
水引虹梁上の隙間から覗いた 扉上の 桐の花に鳳凰。
右側脇障子の唐獅子牡丹。
右面です。
胴羽目は 楠正成 正行親子 櫻井駅の別れ。
「くすのき」の字は 太平記では「楠」ですが 文献によって 特に戦後は「楠木」だったりする事もある様です。
足利尊氏軍を迎え撃つ為に湊川の戦いに向かう正成。
正成は 嫡子の正行に 帝より賜った菊水の紋が入った短刀(だったり巻物だったり)を授けて 今生の別れを告げます。
「最後まで父上と共に。。。」と懇願する正行。
「お前は身命を惜しみ 忠義の心を失わず いつの日か必ず朝敵を倒せ」
この十一年後 成長した正行もまた 兵を起こしますが かなわず敗退して自害します。
背面に廻ります。脇障子の裏側にも彫物がありました。
解説には孔雀となっていましたが アゴに肉髯がありますね。これは鳳凰でしょうか。
胴羽目は養老の滝伝説です。
孝行息子の源丞内が 足を滑らせ谷に落ちた
そこには酒香のする滝があったので 水筒に汲んで持ち帰り 老父に飲ませた
すると 老父はすっかり若返った というお話。
「後藤義光 作 昭和八年十一月」という銘がありました。 あれ? 明治四十五年の造営ではなかったのか。
左側脇障子の裏は 松に鷹。
胴羽目の下には 波千鳥があります。
左面。
胴羽目は 児島高徳 白桜十字詩 です。
後醍醐天皇が隠岐へ流される時 児島高徳という武将が兵を挙げて救出を試みたが果たせず。
美作の院ノ庄の行在所に 単身忍び込んだ高徳が 天皇へのメッセージとして 桜の幹に十字の漢詩を彫った場面です。彫っている最中の構図はよく見ますが 平伏している構図は珍です。
十字の詩とは 『天莫空勾踐時非無范蠡 天匂践空しゅうするなかれ 時に范蠡なきにしもあらず』
意味は「天は勾践(中国春秋時代の越の王)を見放すような事はしない 必ず范蠡(のような忠臣)が現われてお助けします」という感じ。
実際に十字の漢詩が彫ってあるのですが 上手く撮れなかったので 説明書きを転載。
実は二年くらい前まで(幸手市のサイトでは今でも)これは『左側胴羽目彫刻の主題「高山彦九郎(か?) 江戸時代後期の勤皇家高山彦九郎が 京都遊学を志し 三条橋で皇居を伏拝し「草莽の臣 高山正之」を連呼した場面と考えられる』と説明されていましたが とある方が抗議して訂正された様です。
因みに高山彦九郎という人は 平伏する姿の銅像が有名らしいです。
1時間近くいましたが 誰とも行き合わず。 電灯も自分で点灯消灯する様になっていました。
完全に埋没してしまってますな。
でも これ以上は無いって位に立派な覆屋だし 人の管理もあるし すぐ間近で鑑賞する事も出来るし こんな感じで末長く保って貰えれば良いのかも知れないと思いました。
刺青師・龍元
056(2024.06.17)
コメント
左側胴羽目彫刻の説明を信じてしまい『高山彦九郎』について少~しだけ調べ、群馬県太田市に高山彦九郎を祀っている神社があると知り行きましたが、放火によって消失した後でした。
いやあ、公的な解説は信じてしまいますよね。きっと専門家の解説だ、と思ってしまいますから。他の二点が正しいので尚更ですね。 そう考えるとSさんは凄いですね。
それにしても、高山彦九郎を祀ってあった神社が放火で焼失って。。。なんとも衝撃的な話ですね。