刺青図柄の意味 加藤清正の虎退治

武者絵
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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加藤虎之助清正

安土桃山から江戸時代にかけての武将
永禄5年(1562)6月24日生誕
慶長16年(1611)6月24日死没
幼名 夜叉丸

秀吉子飼いの家臣であったが、石田三成との対立もあり、関ヶ原の戦いでは徳川方に付いた。勇猛果敢で知られ、肥後の虎と恐れられた。名城と言われる熊本城の築城主としても有名。

身長190cmの大男だったと言われる。長烏帽子形兜と蛇の目紋がトレードマーク。槍の名手で片鎌槍が有名だが、これは元々は十文字三日月槍であったが、天草一揆討伐の激戦中に片方が折れた、または朝鮮の役での虎との戦いで片方が折れた物をそのまま使っていたという話が伝わっている。

虎退治

文禄元年(1592)からの文禄・慶長の役では朝鮮に出兵。この頃の朝鮮半島にはアムール虎が数多く生息していて、清正の陣地にも出没して馬や兵を襲った。清正は士気高揚の為にしばしば虎狩りをしたと伝えられる。

加藤清正の虎退治
加藤清正の虎退治

秀吉は捕らえた虎の肉を塩漬けにして日本に送る様に指示しており、清正が虎の皮などを日本に送った際の書状が見つかっている。

刺青師・龍元

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