アメリカ放浪記 Part2 コモ編(1)

泊めてくれたSharmanと21歳の私
泊めてくれたSharmanと21歳の私

アメリカ放浪記 Part1 メンフィス編 からの続き

当時アメリカにはいくつかの長距離バスの会社があって庶民の足として親しまれていました。さすが駅馬車から発達しただけあり、大都市から大都市への急行便や小さな町に停まるローカル路線まで、まさに網の目の様に津々浦々まで走っていて、ロサンゼルス~ニューヨーク間5000km以上を直行便だと4日ほどで走破します。

私はロサンゼルスから入り、グレイハウンドという会社のバスで色々周りながら、メンフィスまでは10日位掛かったと思います。

私はメンフィスからバスに乗り、この旅の重要な目的地の一つであるコモと云う町に向かいました。

コモと云う町はメンフィスから7〜80kmほど南下した所にありますが、多分アメリカ人でも知っている人はそう多くはいないでしょう。なぜ私がそんな所を知っていたかと云うと、友人に借りた「本物のブルースシリーズ」みたいな企画モノのCDにブルースハープの曲が入っていて、「コモにて収録」と書いてあったので、コモに行けば本物のブルースが聴けると思ったのです。インターネットも何も無い時代です。コモについて調べるどころかコモが何処に有るのかを探し当てるのがやっとでした。


上りと下りそれぞれ1日1本しか無いバスで、コモから最寄りのバス停に夕方に着いた私は愕然としました。

到着して先ずやらなければならないのは、宿の確保です。でないと野宿する羽目になります。それまでの各都市では大体バスターミナルは駅前に有り、ホテルや観光案内所がすぐそばに有りましたが、ここはただのバス停です。1日1本キリのバスが走り去ってしまったそのバス停には、雨風を凌ぐだけのほったて小屋の他には道路と電柱しか有りませんでした。メンフィス行きの上りの便もお昼の1本キリでもう既に有りません。

そこで野宿しても、どうやら強盗や追い剥ぎの心配は無さそうでしたが、代わりにコヨーテやクーガーが出て来そうでしたし、第一まだ2月の寒い時期でしたから、何が何でも宿を確保しなければなりません。

ほったて小屋に入ると公衆電話とタクシーの電話番号が有ったのでタクシーを呼ぶ事にしました。しばらくすると、想像していたイエローキャブではなく、普通の乗用車にヨボヨボの爺さんが乗ってやって来ました。確か、べニーズタクシーとかそんな名前だったと思うのですが、多分、その爺さんの名前がベニーとかそんな名前だったのでしょう。きっと運転手は爺さん一人です。

私は何処かホテルまで乗せてと頼みましたが、ここら辺にはホテルは無いが隣り町にモーテルが有る、と云う返事だったので、そこまで行ってもらう事にしました。

隣町のモーテルに着いてタクシーを降りた時にはもう既に日が傾き始めていましたから、その日はコモに行くのは諦めて辺りを探索する事にしました。

探索と言っても、ただ十字路にモーテルが有って、向かい側にガソリンスタンドとそこに併設されているコンビニ以外には只々草原が地平線まで広がっているだけです。「クロスロード」を探す旅に出てまさに「十字路」に辿り着いた訳です。
「取り引き相手の悪魔が現れないかなぁ」
と暗くなるまで呆然と立ち尽くしていたのを覚えています。

次の日の朝、モーテルでクサっていても仕方がないので私はコモに行く事にしました。向かいのコンビニで食料を調達し、ガソリンスタンドの公衆電話で昨日のベニーズタクシーを呼びました。待っている間ベンチに座ってサンドイッチをパクついていると、給油に寄ったらしい黒人のトレーラーの運転手が話し掛けて来ました。
「よお、何処行くんだ?」
「コモっていう所に行きたいんだけど…」
「そりゃ一つ先の町だな、よし、方向が一緒だ、乗ってくか?」
「えっ良いんですか?」
「もちろんだよ」
私はタクシーを呼んだ事などお構い無しにそのトレーラーに乗り込みました。

「この道を真っ直ぐ行くとコモの町に着くはずだ」
「ご親切にありがとう」
私はお礼を言ってトレーラーを飛び降りると、全財産の入ったリュックを背負って教えられた道を歩きました。

しばらく行くと、町の中心部に出ました。中心部と言っても、小さな郵便局と役場や教会などがあるのみです。線路が通っていますが駅は有りません。辺りにはポツンポツンと家があり、時たま人も歩いています。私の事が珍しいらしく、みんな愛想良く手を振ってくれます。

現在のComoの中心部 Google Mapsより
現在のComoの中心部 Google Mapsより

「来るには来たけど… まあ、こんなモンだよなあ」
田舎町ですから取り立てて何がある訳でも無いし、線路の脇に座って貨物列車を眺めたり、朝コンビニで買ったサンドイッチを食べて時間を潰しているウチに昼過ぎになったので、バス停に戻る事にしました。

私は町のはずれでヒッチハイクをしようと思い、道を走る車に親指を立てました。

通る車通る車みんな手を振ってくれますが、停まってくれる車は1台もありません。町に一軒だけのタクシーはスッポカしてしまったのでもう呼ぶ事は出来ません。走っている車じゃあダメだと思い、私は町に戻って、ガソリンスタンドで給油している車に片っ端から声を掛けました。夕方に1本しか無いバスを逃すと今度こそ野宿になってしまうので必死でした。

やっとの事で1台の車がOKしてくれました。平ボディの普通トラックで、運転していた人の職業は大工、名前はシャーマン・クーパー。田舎町で退屈していたのでしょう。バス停までの車内では会話が弾みました。
「馬を飼っているんだ。見たいか?」
私はまったく馬に興味は無かったのですが、まだ時間に余裕もあるし乗せて貰った手前もあるので見せて貰う事にしました。

シャーマンの家は農場の様に広い敷地に建物が3軒も建っていて、そのうちの1軒がシャーマンの家、1軒はメイドの家、もう1軒はゲストハウスでした。見渡す限りの草原がシャーマンの持ち物だとの事。

Sharmanと馬
Sharmanと馬

「泊まっていってもいいよ。家もある。」
独り者のシャーマンはニコニコしながら言いました。私は “床下から東洋人男性の白骨死体発見される” なんて見出しが踊る、数年後の新聞を想像してしまいましたが、泊まる事にしました。今思えば無謀だったと思います。ただ若かったというか、無鉄砲というか、世間知らずの命知らずだったのでしょうか。ヒッチハイクを含めて今の私では考えられない事です。

​その晩はビールを飲みながら、夜遅くまで語り明かしました。

泊めてくれたSharmanと21歳の私
泊めてくれたSharmanと21歳の私


アメリカ放浪記 Part2 コモ編(2)へ続く

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