刺青図柄の意味 五条大橋 源牛若丸義経と武蔵坊弁慶の出逢い

弁慶と牛若丸 武者絵
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の技術である手彫りの継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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五条大橋

「刀千本狩りの悲願を立てた武蔵坊弁慶。999本の刀を奪い、とうとう千本まであと一本というある晩、五条の大橋を笛を吹きながら通り掛かった若き日の源義経、牛若丸に闘いを挑む。鞍馬天狗の秘伝を授かった牛若丸は欄干をあちらからコチラ、こちらからアチラへと飛び交い、弁慶を翻弄する。弁慶はとうとう降参し、義経の家来になった」
というのが、一般的に知られた筋書きですね。

武蔵坊弁慶と源牛若丸義経

これは明治に書かれた巌谷小波の「日本昔噺」によるもので、これに倣った尋常小学唱歌で一般に知られる様になった、というのが通説の様で、他にも様々な伝承が有ります。

義経記

義経記 (ぎけいき)では、義経弁慶が初めて出会ったのは安元二年 (1176) 6月、五条大橋ではなく五條天神社の近くとなっていて、この時は決着が付かずに後日、清水寺のいわゆる清水の舞台で決着が付く事になっています。しかもこの時の義経は既に数えで19才。浮世絵や五条の交差点の像から想像すると稚児姿の可愛い少年を思い浮かべてしまいますが、もう元服後の立派な侍です。

稚児というのは、平安時代の頃の大規模寺院において剃髪しない少年修行僧の事。髪型は垂髪か稚児髷、化粧をして水干や振袖でを着ていました。

橋弁慶

能楽の橋弁慶では、牛若丸が千人斬りをしていて、退治に行った弁慶が返り討ちにあうという筋書きになっています。

弁慶物語

江戸時代前期に成立したとされる奈良絵本の弁慶物語では、平家の刀千本狩りの目標を立てた弁慶が、後一本で千本という所で、北野に社参の義経に刀を取られてしまい、一ヶ月後には法性寺近くで戦い、その翌月には清水で義経に出会って五条大橋で戦う、となっています。

他にも微妙に設定の違う物がありますが、そもそも牛若丸の時代には五条大橋はまだなく、一本隣の松原通りが五条通りと呼ばれていた様です。

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