後藤功祐の彫り物 [飛川神社 其のニ] 山梨県

漢高祖劉邦の龍退治 神社仏閣
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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令和六年七月中旬 山梨県富士川町の飛川神社とがわじんじゃに参拝しました。

からの続きです。

宝永三年(1706)創建
文久四年(1864)建立
御祭神 木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと
彫師 後藤功祐

御本殿背面

背面胴羽目は 黄石公と張良の説話。柱間二間2点で一組です。

飛川神社御本殿

『ある朝 張良が散策して橋のほとりに来ると 粗末な衣服をきた老人が近づいて来て わざとくつを橋の下に落とした』

黄石公

『老人は「小僧 拾って来い」と あごでしゃくった』

黄石公

『張良はブッ飛ばしてやろうと思ったが 考え直して 履を拾って老人にわたそうとした』

張良

『すると 穿かせろと言わんばかりに 老人は片足をあげた』

黄石公

『張良はこういう理不尽さに対して心身をやわらかにする心術をもっていた』

張良

『老人は満足して去ったが ほどなくして戻ってきて「物を教えてやる 五日後の朝ここに来い」と言う。

五日後の早朝 橋畔に行くと 老人はすでに来ていて「遅い!五日後に出直して来い」と言った。

五日後 再び橋畔に行くと 老人はまた履を落とした。その時 大蛇(龍)が現れて履を取り 張良に襲いかかった』

龍

『張良は剣を抜き 剣の光を恐れた大蛇から履を取り戻して 老人に穿かせた』

張良

『老人は張良に書をわたした。その書には「太公兵法」と題されてあった。後に張良は 劉邦の軍師となる』

黄石公と張良

背面 腰組間は唐獅子 腰羽目は水鳥でした。

御本殿左面

飛川神社御本殿

左面 柱間二間 2点の胴羽目は左右で独立した画題です。

韓信の股くぐり 漢高祖劉邦の龍退治

左側の胴羽目は 韓信の股くぐり。

『韓信は いつも腰に長剣を鳴らして ほっつき歩いていたが ある時 気の荒い肉屋が「その長剣で俺を刺してみろ できなきゃ俺の股をくぐれ」とおどしあげた』

街のチンピラ

『この時 韓信は大人しく這って股をくぐり ひとびとは韓信を臆病者だと言って蔑んだ』

韓信

『後年 韓信が名将の名をほしいままにしてから ひとびとはこれを彼の大勇の証拠だという風に美談にした』

韓信の股くぐり

右側胴羽目。

漢高祖劉邦の龍退治

これ↑と同じ構図の胴羽目が 東京都北区の諏訪神社↓にあり 若林純の本では 金龍と方相 と紹介されていました。

方相と金龍
東京都北区諏訪神社胴羽目

でも だんじりなどでは 似たような構図で 漢高祖・劉邦の大蛇退治 とされている彫り物を多く見掛けます。

漢高祖劉邦

『劉邦は剣をふりあげ 力任せに大蛇の胴をうち 狂った様な勢いで胴を両断してしまった』

漢高祖劉邦

『その時老婆が いていた「白帝の子が この小径に横たわっていたが 赤帝の子が通りかかり 斬ってしまった」 白帝は秦の始皇の事である。これを聞いた劉邦は これは吉兆だ として兵を起こした』

龍

韓信や張良は漢の初代皇帝・劉邦の臣だし 右側胴羽目の三顧の礼は後漢末期の話なので(前漢初期と後漢末期では四百年の隔たりがありますが)これは漢つながりで 漢高祖・劉邦の大蛇退治の方がありそうかも。

これだけ似た彫り物があるのだから 元絵は無いものか と探しましたが ドンピシャなのは見つかりませんでした。

漢ノ劉邦 芒湯山 白蛇ヲ斬ル
漢ノ劉邦 芒湯山 白蛇ヲ斬ル 葛飾北斎画 British Musium

脇障子のこの方々はどちら様でしょう?

どなたでしょう

画題解明には 持ち物などがカギになると思うので 拡大写真を載せておきます。

どなたでしょう

どなたか心当たりのある方 ご教示ください。

どなたでしょう

因みに反対側脇障子は李白観瀑と思われます。

左側腰羽目は 唐子の雪玉転がし。

唐子の雪玉転がし

右側腰羽目は 象と唐子。

唐子と象

流麗かつ緻密で ボリューム満点の彫刻。たっぷり1時間以上いました。

熱心に撮影する私の姿を見た 近所の人に「調査ですか?」と尋ねられ「ハイ」と答えておきました。

刺青師・龍元

068-02(2024.08.12)

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