張飛翼徳 (西暦160年代〜221年)
中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍、政治家
姓は張、諱は飛、字は益徳だが三国志演義では翼徳に変更されている。
諱とは本名の事。古来より漢字文化圏では諱で呼びかける事は非常に無礼であるとされ、親や主君意外の人が呼び掛ける時には代わりに字が用いられた。
三国志演義においては五虎大将軍として、関羽、趙雲、馬超、黄忠と並び称された。後漢末の群雄の一人・劉備に仕え、その人並み外れた勇猛さは1人で兵1万に相当すると評された。
身長八尺(約184cm)、ゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のようと表される。一丈八尺の蛇矛を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇るが、酒癖が悪く短気で、部下の怨みも買っていた。
三国志演義
「三国志」とは劉備の蜀・曹操の魏・孫権の呉の三国が覇権を争った三国時代を著した歴史書。「三国志演義」は史実を元に創作された歴史小説である。日本への伝来時期は定かではないが、特に江戸期に大流行、盛んに浮世絵や刺青の題材にされた。水滸伝・西遊記と並んで中国三大奇書の一つに数えられる。
桃園結義(とうえんけつぎ)
桃園の誓いとも称され、三国志演義などの序盤に登場する説話。劉備玄徳・関羽雲長・張飛翼徳の3人が、義兄弟となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行った。
長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)
劉表の客将として新野で対曹操戦線を敷いていた劉備だったが、劉表の息子・劉琮の降伏により最前線で孤立。一度は曹操軍を撃退したが、二度、三度と続く波状攻撃に撤退を余儀なくされた。
新野から十数万の劉備を慕う領民を伴っていたため、撤退は遅々として進まず、荊州当陽県の長坂で劉備軍は曹操率いる五千の兵に追いつかれてしまう。
長坂橋大喝(ちょうはんきょうだいかつ)
僅か二十騎ほどを引き連れて殿軍を引き受けた張飛は、長坂橋に立ち塞がった。この橋を渡らなければ、曹操軍は劉備軍に攻め入る事が出来ないのである。
「燕人張飛、これにあり! 俺と命がけの勝負をしたい奴はいるか!」
張飛は目前の曹操軍に向け地鳴りの様な声で大喝。五千人の曹操軍が張飛のこの一喝で動けなくなってしまった。流石の曹操も動転し、恐怖のあまり2kmも退却したという。
張飛の最期
酒癖の悪い張飛だったが、関羽の弔い合戦の準備の最中に酔い潰れて寝ている所を、怨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。
劉備はかねてより、張飛が鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせている事を戒めていた。
部下を頻繁に処刑するなど、残虐な所もありますが、どこかズッコケで愛嬌のある姿は今でも人気がありますね。
刺青師・龍元