刺青図柄の意味 ヤマトタケルノミコト

日本武尊 神話
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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父 第12代・景行天皇
幼名 小碓命おうすのみこと
表記 古事記ー倭建命 日本書紀ー日本武尊
神格 武神 農業の神
神徳 国土平安 五穀豊穣 商売繁盛

幼少時

小碓命の兄・大碓命おおうすのみことは父・景行天皇の側女を自分の后にしてしまった為、父を避ける様になった。景行天皇は小碓命に兄を連れて来る様に命ずるが、大碓命は一向に現れなかった。不審に思った天皇が小碓命に尋ねると、
「厠から引き出し、掴み潰して手足を引き抜き、袋に包んで投げ棄てました」
と答えた。

熊襲征伐(くまそせいばつ)

小碓命の残虐性を恐れた天皇は、小碓命を中央から遠ざけようと九州の熊襲征伐を命じた。

小碓命は叔母の倭比売命やまとひめのみことから授かった剣と衣装で、女装して熊襲建くまそたける兄弟を討った後、建の名を取って倭建命やまとたけるのみことと名乗る事にした。

蝦夷討伐(えみしとうばつ)

タケルは出雲の神、山河の神、海峡の神を平定しながら大和の国へ戻るが、天皇から歓迎される事はなく、今度は蝦夷討伐を命ぜられた。

倭比売命の所に行ったタケルは
「天皇は自分に死ねと思っておられるのか」
と嘆く。倭比売命は 素戔嗚尊すさのおのみことが八岐の大蛇を倒した 時に尻尾から出て来た天叢雲剣あめのむらくものつるぎと火打ち石の入った袋を与えた。

草那藝剣/草薙剣

日本武尊

蝦夷討伐に出発したタケルは、相武国さがむのくに(現静岡県)で欺かれ、野火攻めに遭った。そこでタケルは倭比売命に授けられた天叢雲剣で草を薙ぎ払い、火打ち石で向かい火を起こして脱出した。この事から天叢雲剣は別名・草薙剣くさなぎのつるぎとも呼ばれる様になった。

妃・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)

一行が船で走水はしりみず(現横須賀市)の沖に差し掛かった時、海が荒れ狂い、船は木の葉の様に翻弄された。日本書紀では
「こんな小さな海など一跳びだ」
と豪語した日本武尊が海神の怒りを買ったと記される。

タケルの后である弟橘比売命
「これは海神の怒りに違いない。鎮めるには自分が人柱になるより他に方法は無い」
と考えて海に身を沈めた。すると、荒れていた海は俄かに鎮まった。陸に上がったタケルは妻の影を求めて何日も彷徨った。この時のタケルの心情「君去らず」が木更津の地名の由来になったという。

最期

更にタケルは多くの国々を平定して行くが、ある時、草薙剣を忘れて伊服岐いぶきの山の神を討ちに出掛けて、祟りによって病に倒れ、最期には亡くなってしまった。

知らせを聞いた后や御子達が
「なづきの田の 稲がらに 稲がらに もとほろふ 野老蔓ところづら
“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”
と歌を詠むと、タケルの魂は八尋白智鳥やひろのしろちどりとなって天を翔けて行った。

刺青師・龍元

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