平将門(たいらのまさかど)
生年不詳-940
第50代桓武天皇の第5世子孫
平安中期の北関東の豪族
子 平良門 五月姫 (滝夜叉姫)
平将門の乱(935-940)では成り行き上、不本意ながらも朝廷に反旗を翻す形になり、最終的には・下野・上野の国府を占領し、関東を支配下に置いて新皇を称した。940年 将門討伐の勅令により、平貞盛・藤原秀郷らに討たれる。
西日本では将門は朝敵であるが、東日本では英雄とみる向きも少なくなかった。将門を祀る東京千代田区の神田明神のウェブサイトには
『平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です』
とある。
伝説
ある時は超人、ある時は魔神として残された伝説も多い。また、菅原道真・崇徳院と並んで日本三大怨霊の一つに数えられる。
影武者を使った武将の元祖であると言われる。『俵藤太物語』では「将門と全く同じ姿の者が六人いた」「将門の影武者は遠い日に向かうと影が無い」と描写されており、影法師の術を使ったとされている。
獄門晒し首
討たれた後、将門の首は京へ運ばれて七条河原で晒し首となった。歴史上確認される最も古い獄門晒し首とされる。
将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかの様に目を見開き、夜な夜な「躯つけて戦せん。俺の胴はどこだ」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。
ある時、歌人の藤六左近が、目を見開き歯軋りをする将門の首を見て
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太 (藤原秀郷) が はかりごとにて」
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。
首塚
将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、この将門の首に関して、各地に首塚の伝承がある。中でも有名なのが東京大手町の平将門首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
刺青師・龍元