令和七年九月上旬 長野県佐久市の倉沢薬師堂に参詣しました。

創建年代不詳
慶長年中(1596-1614)現地に遷座
明和五年(1768)現本堂完成
彫師 高松新次郎

向拝の龍です。

彩色はすっかり剥がれ落ちていて 微かに緑色の顔料と白い胡粉が残っています。

唐破風を支える力神さま。

猿みたいですが 足が二本爪なので邪鬼型力神に分類できます。

外陣天井には天女と龍の天井画。内外陣境欄間には彫刻があります。

左から見ていきます。
1番左は鶴が二羽。

その隣は錦鶏でしょうか。

中央扉上 扁額両脇の欄間には 竹林の七賢人がありました。

左側は 七賢人のうちの三人。

竹林の七賢人とは 三世紀の中国三国時代末期および晋代初期に老荘思想を主張し 清談を行った七人の思想家の総称。

阮籍 嵆康 山濤 向秀 劉伶 阮咸 王戎の事です。

阮籍が指導的存在と言われます。

が 彫刻や絵画では どれが誰なのかを同定する事は困難です。

隠者と言われる事がありますが 多くは役職についており 特に山濤と王戎は三公(最高位の三つの官職)にまで登りつめたと云います。

後世の人々から敬愛されて七賢人と呼ばれますが 実際に七人が一堂に会した事はない様です。

右側の欄間には 七賢人のうちの四人がいます。

楽しそうです。

竹林の七賢というと 日本では 現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっています。

が 中国三国時代末期から晋代初期の状況では 奔放な言動は死の危険がありました。

実際 嵆康は讒言によって陥れられて 死刑に処せられています。今もそんな状況なのかもですが。

と ここまで さも知っている様に書きましたが 全て Wikipedia の受け売りです。

七賢人の欄間の隣には 山鵲。

その隣には 左端の鶴と対になる 亀が二匹。

内陣には宮殿と十二神将が鎮座していました。彫師は本堂と同じく高松新次郎。

本堂大棟鬼板には赤鬼面がありました。

角がありません。

反対側は青鬼。

こちらも角がありません。角の痕跡らしきものはあります。

豊かな表情の七賢人が見どころの御堂でした。
刺青師・龍元
069(2025.11.22)

コメント
onijiiです。
力神と鬼面目的で参拝しました。
八人いる七賢人?ではなく、七人
なのですね。(笑)
佐久市も佐野市、栃木市、鹿沼市
同様、寺社彫刻が大流行した地域、
愛好家には魅力的ですね。
九人いれば香山九老の可能性もありますが、八人というのはあまり聞きませんね。
七賢人には小坊主が幾人かいる事があるので紛らわしいですね。