先日、二十四孝に会いに行く!の小心さんより『「黄石公と張良」と「漢文帝と河上公」の区別の判断の決め手はどこだと思われますか』という内容のコメントを頂きましたので、私なりに考察してみました。
間違い・勘違いなどが有るとは思いますが、あくまで、寺社彫刻に興味を持って数年の素人が、ネットで調べられる範囲での考察なのでご了承下さい。ご意見、反論、ご感想などを寄せて頂けると嬉しいです。
小心さんは、『川が流れているのが黄石公で、無いのが河上公と判断していたが、調べると河上公は「黄河のほとりに草庵を結んでいた」のでそれは違う様だ』とおっしゃっていました。
黄石公と張良
「黄石公と張良」の要約はこんな感じです。
『張良は黄石公という不思議な老人に出会いました。老人はわざと沓を落とし、張良に拾えと言います。張良が沓を拾うと今度は履かせろと言います。張良はぶっ飛ばしてやろうかと思いますが、老人の只者でない雰囲気を感じ取り、沓を履かせました。
すると「五日後に来い」と言います。
張良が五日後に行くと、老人は既に来ていて「年長者より遅く来るとは何事だ、五日後に出直して来い」と言います。
さらに五日後、張良が日の出前に来て待っていると、老人がやって来て、川に沓を落とします。張良はすぐに沓を拾おうとしますが、大蛇が現れて沓を取り、張良に襲いかかります。張良は剣を抜いて大蛇から沓を取り戻し、老人に履かせました。黄石公は張良を褒め、兵法の奥義を伝授しました。
後に張良は劉邦の軍師になります。
問題は黄石公が張良に兵法書を授ける場面です。
河上公
次に河上公です。浅学な私は河上公というのを知らなかったので、調べてみました。
Wikipediaには項目は立てられていませんでしたが、「老子道徳経」という項目に
『本文および注釈書としては、魏の王弼による「老子注」と、漢の河上公によるものとされる「老子河上公注」が代表的なもの』
という記載がありました。
どうやら老子の教えを研究して広めた人の様で、色々謎めいた話も有る様です。
件の「河上公と文帝」の説話を要約すると、こんな感じです。
『老子道徳経の熱心な研究者である漢文帝は、河上公が老子に通じていると聞き、教えに来るように使者を送ったが、拒絶された。怒った文帝は庵に行き、皇帝には力があることを厳しく知らせた。すると河上公は空中浮遊をして「帝王の指図は受けぬ」という。河上公が神人である事を悟った文帝は礼を尽くして教えを乞うた。すると、河上公は巻物二巻を文帝に授け、姿を消した』
呼んでも来ないから脅しに行ったら逆に脅し返されて、ビビった皇帝が頭を下げて頼んだら巻物をくれた、という話の様です。
北斎画の挿絵
件のコメントで「河上公と漢文帝」として提示していただいた「唐詩選画本 七言律」の「九日登仙台呈劉明府容」の挿絵です。
なるほど、似ているどころかそのまま「黄石公と張良」(と私が思っている物)と同じ構図です。ひざまづいている人は皇帝らしくない格好をしている様な気もします。この人は漢文帝なのでしょうか。
九日登仙台呈劉明府容
この挿絵の前のページには「九日登仙台呈劉明府容」と題された漢詩が載っていました。つまり、この挿絵はこの漢詩に対して付けられた物の様です。
「九日登仙台呈劉明府容」というのは唐代の崔曙という人が書いた七言律詩のタイトルです。七言律詩とは漢詩体の一つで、七言八句からなる近体詩の事です。
九日登望仙台呈劉明府容
唐代:崔曙
漢文皇帝有高台,此日登臨曙色開。
三晉雲山皆北向,二陵風雨自東來。
關門令尹誰能識,河上仙翁去不回。
且欲近尋彭澤宰,陶然共醉菊花杯。
内容を見てみます。私は漢文を読めないので、Web漢文大系というサイトで調べました。
タイトルの読み下しは「九日、仙台に登りて劉明府に呈す」。よく分かりません。
単語の意味は、
「九日」陰暦の九月九日、重陽の節句。
「仙台」漢文帝が河上公に教えを乞うた場所に河上公を祀って築いた台。
「劉」劉容。人物については不明。この地の地方長官と思われる。
「明府」県令の雅名。
「重陽の節句の日に仙台に登って(この詩を)劉県令に呈する」という感じなのでしょうか?
本文の読み下し
「漢文皇帝 高台有り 此の日登臨すれば曙色開く
三晋の雲山 皆北に向い 二陵の風雨 東自り来る
関門の令尹 誰か能く識らん 河上の仙翁 去って回らず
且く近く彭沢の宰を尋ね 陶然として共に菊花の杯に酔わんと欲す」
何だか良く分かりません。漢詩というのは色々に解釈が出来るので、左のページには詳しい解説が載っている様ですが、悲しいかな、私は崩し字が読めません。
でも読める部分から何となく推測すると、河上公の事は間接的に出てくる様です。
唐詩選画本 七言律
「唐詩選画本 七言律」について調べました。
唐詩選画本というのは漢詩に挿絵を付けて解説した本で、初編から七篇まであり、特に六・七編は、北斎が挿絵を書いたことで知られる様です。
件の「九日登仙台呈劉明府容」の絵は「唐詩選画本 七編 天保7年(1836)刊 七言律 高井蘭山著、葛飾北斎画」に収録されています。
『唐詩選畫本』考― 詩題と画題について
という考察によると、北斎はこの本の編集に直接携わっている様です。なので北斎がこの挿絵をこの漢詩のために描いた、もしくはこの漢詩の挿絵にする事を了解した、という事は間違いない様ですので、この挿絵は「河上公と漢文帝」であって黄石公ではない、という事で良さそうです。
何だよ!だから小心さんは「河上公と漢文帝」だって
最初から言ってるじゃん!
すみません、一応念のために。。。
そうすると、今まで見て来た老人が若者に巻物を渡している彫り物は、実は全部「河上公」だったんじゃないの?
いえ、河上公の話に沓は出てこないので、少なくとも沓を差し出しているのは「黄石公と張良」だと思います
じゃ、沓があるのが「黄石公」で、無いのが「河上公」だ!
いや、そうとも言えませんね。埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社拝殿脇障子は裏表に「黄石公と張良」の説話が彫ってありますが、裏面の巻物を授かる場面では張良の手に沓はありません。
先の『唐詩選畫本』考― 詩題と画題について には、他の画と似ている画があるのはやむを得ない、と書かれていました。
画の場合、表題を付ければ何が描かれているか判る訳ですから、あえて他の画と区別しようという動機が絵師に無ければ、似た話は当然に似たような画になります。
浮世絵も同じです。刺青の画題としても人気のある「児雷也」と「天竺徳兵衛」はともに蝦蟇を操る妖術師なので、両方とも蝦蟇と妖術師が描かれ、区別は表題のみです。
結論
「黄石公と張良」と「河上公と漢文帝」を区別する事は出来ず、彫師や世話人など、当時の関係者しか本当の画題を知らないという結論になりそうです。実際、専門家は古文書や彫師の覚書の様な物まで調べる様です。
という事で、はっきりと違いが判るまでは今まで通り「黄石公と張良」という事にしようと思います。
長々と書いておいて結局分からないなんて、本当にすみません。この記事を上げるかどうか迷ったのですが、もしかしたら、誰か本当の事を知っている人がいるのではないか、と思ってアップしておきます。問題提起をしてくださった小心さんに感謝いたします。
刺青師・龍元
(2021.11.06)
コメント
詳しい考察ありがとうございました。10/26の稲荷神社の彫刻、右側の男性が受け取っているのは「沓」なんですね。「巻物」だと思い込んだために「河上公と漢文帝」かも、と考えてしまいました。「沓」なら「黄石公と張良」で間違いないですね。
「沓」と物々交換でなく、「兵書」のみを受け渡ししている場面ではやはり判断難しそうですね。でも「黄石公と張良」のほうが知名度はずっと高いので社寺彫刻にするならこちらでしょうね。いろいろ勉強になります。ありがとうございました。
いえ、10/26の稲荷神社は巻物で良いと思います。老人は両足に沓を履いてますので。
画題の判断は本当に難しいですね。勝手な事ばかり書いてますが、そこが面白くて深みにはまってしまいます。
こちらこそありがとう御座います。