背中額彫り [地獄太夫と閻魔大王と一休和尚] ついに完成しました

地獄太夫と閻魔大王と一休和尚 手彫り刺青作品
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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とうとう背中額彫り 地獄太夫と閻魔大王と一休和尚が仕上がりました。

地獄太夫というのは室町時代の遊女で一休伝説に登場します。

元々武家の娘で名を乙星と言いましたが、山中で賊にとらわれ、あまりの美貌のため遊女として売られてしまいます。現世の不幸は前世の戒行が拙いゆえであると考えて、自ら地獄と名乗り、心では仏名を唱えつつ、口では風流の唄をうたったといいます。

頓知の一休さんでお馴染みの一休禅師と師弟関係を結んでいたと云われますね。

地獄「山居せば深山の奥に住めよかし こゝはうき世のさかひ近きに」
一休「一休が身をば身ほどに思はねば 市も山家も同じ住家よ」

一休「きゝしより見ておそろしき地獄かな」
地獄「しにくる人の落ちざるはなし」

↓中央三角印で動画再生です

お客さんと共に仕上がりを目指して頑張る訳ですから、仕上がるともちろん嬉しいのですが、終わってしまって寂しくもあります。

「我死なば焼くな埋むな野に棄てて飢ゑをる犬の腹を肥せよ」

刺青師・龍元

地獄太夫は摂津堺北の荘珠名長者が抱の遊女なり、実に梅津某の女、曽つて如意獄の雪中に賊の為めに捕らはれて妓に賣らる、謂らく斯く憂き川竹に身を沈むるも、畢竟前世の戒行の拙きが故なり、未来も恐らくは地獄に落つべきなり、せめて懺悔の為めにもと、自ら名を地獄と命じ、苛責の罪を今生に免れ、後世の浄土安楽を願はんと、口に風流の唱歌唄ひ、心に仏名を唱ひ、弥陀の救を願ひぬとぞ、年甫めて十九、容姿秀麗、艶名遠く聞ゆ、時に一体和尚会々堺に至るや、地獄之を聞きて一首を送る。「山居せば深山の奥に住めよかし こゝはうき世のさかひ近きに」一休返し、「一休が身をば身ほどに思はねば 市も山家も同じ住家よ」やがて一休その凡俗ならぬを知り来りて見る。「きゝしより見ておそろしき地獄かな」とありしかば、地獄取あへず、「しにくる人の落ちざるはなし」と付けしという、河鍋暁斎の画く所あり。(『画題辞典』斎藤隆三)

地獄太夫は泉州の遊女、堺北の荘高須の町の珠名長者が抱妓で梅津某の子、如意山の雪中に山賊に捕はれて妓に売られた、容姿艶麗年十九でその名教坊に聞えた、一休和尚その地獄といふ名を心憎く思ひ一日酔に乗じてその妓楼に訪ねた、地獄和尚の法衣の襤褸を見て凡僧でないと悟りこれに参禅した、一休これに教ふる処があつたが、地獄また和尚を試みやうとして美姫を聘し酒肴を出して之を饗応した、一休強かに酔つて且つ舞ひ、遂に仆れ臥すに至る、地獄自から看護の労をとり款待至らざるなし、和尚此の時欄に依つて吐したが、吐く処のもの皆池中に入つて魚となつたと、地獄乃ち和尚に地獄極楽の状を問ひ教を得、また禅に参じて悟道を得た、一日病に臥し珠名長者に謂て曰く、死は帰、生けるものは必ず滅す、妾め病癒ゆべからず、唯養育の恩に報い得ぬのを憾む願はくは一休禅師に会つて入滅の度を得たいと、一休偶々地獄の死期を知つて来る、地獄乃ち衣を改め、端座琴を撫し、悟道の曲を奏し終つて瞑目した、その辞世に曰く「我死なば焼くな埋むな野に棄てて飢ゑをる犬の腹を肥せよ」と、一休命じて四十八日後八木郷久米寺に火葬すと。  (大日本人名辞書)

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