刺青図柄の意味 趙雲子龍

三国志 趙雲子龍 武者絵
プロフィール

彫師歴四半世紀余。東京六本木にて刺青芸術工房龍元洞を主宰。
日本のみならず、世界中で日本伝統刺青に注目が集まる中、世界の刺青大会に参加、北米・南米・欧州・豪州など各国の刺青師と交流。日本古来伝統の手彫りの技術の継承・研鑽とともに、日本文化の紹介にも力を注いでいます。

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趙 雲 子龍ちょう うん しりゅう (西暦160年代〜229年)
中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍

姓は趙、いみなは雲、あざなが子龍
諱とは本名の事。古来より漢字文化圏では諱で呼びかける事は非常に無礼であるとされ、親や主君意外の人が呼び掛ける時には代わりに字が用いられた。

元々は公孫瓚こうそんさん(後漢末期の群雄の1人)の配下であったが、劉備りゅうびが公孫瓚に身を寄せている時に意気投合。兄の死をきっかけに公孫瓚の元を離れて流浪の末、劉備の主騎となった。

三国志演義においては五虎大将軍として、関羽張飛、馬超、黄忠と並び称され、勇猛かつ義に篤く、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。
「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」
(身長八尺《約184cm》の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)

三国志演義

「三国志」とは劉備の蜀・曹操の魏・孫権の呉の三国が覇権を争った三国時代を著した歴史書。「三国志演義」は史実を元に創作された歴史小説である。日本への伝来時期は定かではないが、特に江戸期に大流行、盛んに浮世絵や刺青の題材にされた。水滸伝・西遊記と並んで中国三大奇書の一つに数えられる。

長坂の戦い

劉表の客将として新野で対曹操戦線を敷いていた劉備だったが、劉表の息子・劉琮りゅうそうの降伏により最前線で孤立。一度は曹操軍を撃退したが、二度、三度と続く波状攻撃に撤退を余儀なくされた。

新野から十数万の劉備を慕う領民を伴っていたため、撤退は遅々として進まず、荊州当陽県けいしゅうとうようけん長坂ちょうはんで曹操率いる五千の兵に追いつかれて、劉備は領民や妻子を置いて逃走する。

趙雲救幼主(ちょううんきゅうようしゅ)

三国志 趙雲子龍

戦乱の中、趙雲は行方不明になった劉備の妻・糜夫人び ふじんと嫡子・阿斗あと劉禅りゅうぜん)を捜索。やっとの事で脚に怪我を負って動けなくなった糜夫人と阿斗を発見するが、糜夫人は阿斗を趙雲に託し、自らは足手まといにならぬ様にと道端の井戸に飛び込んでしまった。趙雲は阿斗を懐に抱き、押し寄せる曹操軍の中を単騎脱出、無事に劉備の元へ帰参した。

趙雲救幼主
長坂坡趙雲救幼主 埼玉県阿保神社胴羽目

三国志関連の刺青と言えば関羽が多く、趙雲はあまり見ませんが、私は三国志の中では1番好きなキャラクターですね。

刺青師・龍元

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