源為朝
源為朝(みなもとのためとも) 1139-1170
平安時代の武将
源為義の八男 頼朝・義経 兄弟の叔父にあたる
源義経 は実際は八男だったが、叔父の為朝に遠慮して九郎義経と名乗ったとする説がある
身長七尺(2m10cm)を超える大男で、五人張りの強弓の使い手。暴れ者で兄達に対しても傍若無人だったため、13才の時に勘当され九州へ追放されるが、僅か3年のうちに九州を平定してしまう。自らを鎮西八郎(ちんぜいはちろう)と名乗った。鎮西とは西方を鎮める事、もしくは九州地方の事。
崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱 (1156) では上皇側についた為に敗北、朝敵として伊豆諸島に流される。ここでも暴れ回り事実上、伊豆七島を支配するようになるが、最後には討伐の院宣が降り、負けを悟った為朝は自害した。享年32才。
伝説
疫病神も恐れるほど強かったので疱瘡除けのお札になった、鞍もろとも鎧武者を射通して串刺しにした、一矢で300人乗りの軍船を沈めた、などの伝説や武勇伝は枚挙にいとまがない。
保元物語においては既に超人的な豪傑として描かれている。終焉の地である伊豆諸島には特に伝承が多い。八丈島や青ヶ島、遥か奄美大島や徳之島、沖永良部島にも渡来の伝説がある。
椿説弓張月
為朝の生涯を描いた馬琴の「椿説弓張月」。朝敵の汚名を着せられた主人公の為朝が、妻の白縫姫、一子舜天丸(すてまる)、郎党鬼夜叉などとともに漂泊、苦難に耐えながら生きる英雄伝。
物語後半では伊豆から琉球に渡った為朝が、妖術を使って琉球を支配しようとしていた 妖僧・曚雲 と対決する。
図は、舜天丸が放った矢が 曚雲 の喉元を貫いたところを、為朝が一刀の元に首をはねると、曚雲 は実は 虬(みずち 龍の一種)の化身だった、という場面。
刺青師・龍元
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